人の声のやさしさ



合唱コンテストがあった


文化祭の出し物の一つである。中一から高三まで各クラス全員で二曲ずつ歌う。どの歌を選ぶかは生徒に任されているようだ(あるいは音楽の先生が指導しているのかもしれない)。おかげで選曲は見事なまでにバラバラだ。


『小さい秋見つけた』byサトウ・ハチロー先生があれば、『We are the World』byマイケル・ジャクソンライオネル・リッチーあり。はたまた『少年時代』by井上陽水、『キセキ』byGreeeeNに『Let It be』もある。何でもありである。


これが意外に聴かせる。まずどのクラスも一応、コンテストに備えてきちんと練習するらしい。だから音程、リズムその他はきちんと合っている。加えて一クラスに45人もいるメリットを生かして、低音部(声変わりしている生徒が担当する)、高音部(まだボーイソプラノを出せる生徒が受け持つ)をわけている。これが結構いいハーモニーを奏でる。


特に中学一年生などはソプラノがきれいに響いてくる。一方で中学三年生でも、かなりまじめに練習しているようで、こちらは声量がしっかりと出ている。歌う前に音合わせをするクラスさえあった。これは多分にデモンストレーション効果も狙っているのだろうけれど、なかなか真剣なのだ、みんな。


そして手抜きせず練習した成果はきちんと出ていて、その歌声を聴いていると心地よくなる。ふわ〜っとした気分になったり、ソプラノのハーモニーがぴたっとはまったフレーズでは、ちょっとぞくっときたり。


彼らの歌を耳にして改めて思ったのは、人の声の快さだ。何を今さら当たり前のことを、と言うなかれ。人の声を聴くのは実に心安らぐことなのだ。特に、まがりなりにも練習を繰り返し、それなりにうまく歌おうと努力している人たちの歌なら特に。


というか、人はその本能として、人の声を心地よく感じるようにできているのだと思う。だから、たいていの人の声を基本的に快適なサウンドとして受け止めることができる。発声をきちん訓練した人の声が耳触りよく響くのは当たり前だ。


そしておそらく、声を聴くことが気持ちいいからコミュニケーションが成り立つようになったのではないか(因果関係は逆かもしれないけれど)。と考えれば、ごく稀に「どうしても気分が悪くなってしまう」声しか出さない人については、どう解釈すればよいのだろう。


そもそも声の好き嫌いなどは、超・個人的な事象のはず。同じ人の声を聴いても、気分よく思う人がいれば、気分を害す人もいるに違いない。その違いが生まれるのは、なぜか。あるいは倍音については、基本的にほとんどの人が「快」を感じるのはなぜか。


そんなことを考えさせてくれる合唱コンテストだった。


昨日のI/O

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プランタン・三井さんインタビューメモ


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