子どもとの会話
身長差、約100センチ
向こうから背の高い茶髪ロン毛男性が、小さな子どもの手を引いて歩いてきた。見たところ親子である。引っ張られるようにして歩いている男の子はまだ3歳ぐらいだろうか。父親が子どもに何か話している。距離が近づくにつれて、男の表情がだんだんはっきりとしてきた。
息子にほほえみかける優しいお父さん、ではどうやらないようだ。腹立たしそうな様子がうかがえる。子どもはべそをかいている。そしてすれ違いざま、怒声が聞こえてきた。
「パパをちゃんと見て、しゃべらんかい!」
「ごめんなさい」
子どもは首を目一杯曲げ、頭を後ろにそらして父を見て話していた。あれじゃ、男の子はしんどいやろなあと思った。人と話すときの視線の合わせ方は、自分にとって重要な関心事である。確かに話をしている相手にそっぽを向かれたり、明らかに視線を別のところに持って行きながら返事をされたりするのは、気分の良いモノではない。自分の話をきちんと聞いてもらっている感じがしない。
人と話をするときには、相手と視線を合わせるのが基本的な決まりごとである。もっとも日本では、あまりにじっと相手を見ることは不作法と見なされることもある。だから、時にすっと視線を外す気配りが求められたりもある。が、その場合でも、少なくとも顔は相手に向けておくべきだ。その意味で、父親の注意はわからないこともない。
しかし、である。相手は小さな子どもである。その子に対して、背の高い自分を見よと命令するのはどうなのだろうか。まず、何よりも危ないではないか。家の中ならともかく、人もたくさん歩いている大通りである。前を見ずに進んでいては、歩道の段差にけつまずくかもしれないし、人にぶつかる恐れだってある。
しかも、身長差が相当にあるのだ。首が疲れもするだろう。そうした姿勢を続けることは、まだ幼い子どもにとって決して楽なことではない。苦しい思いをしながら聞かなければならない相手の話を、いつまでも進んで聞くだろうか。
こんなことを意識するようになったきっかけは、自分の息子が幼稚園に通っていた時にPTA会長をやらせていただいたことにある。毎週一回必ず、イベント前の忙しい時期には週に3回ぐらい、幼稚園に通っていた。当然、子どもたちと接する機会もある。子ども好きなので、子どもを見れば話しかけたくなる。ところが、こちらから言葉をかけても、なかなか返事がもどってこないのだ。
なぜかと考えつつ、幼稚園の先生の姿を見ていて気がついた。先生は、大勢の子に話しかけているときと、一人ひとりの子どもに向かい合って話すときでは姿勢を変えている。特定の子どもに何かを伝えるとき、相手の話を聞くときには、しゃがんでいるのだ。
なるほど。これだったら、上を向かなくてもすむから、子どもは話しやすいのではないか。早速やってみると、ビンゴォ! もしかしたら子どもに嫌われているのかと思いきや、そんなことはまったくなかった。そもそも子どもは大人に対してぱっと見で、好き嫌いの感情を持ったりすることはまずないのだ。ただ上向いてしゃべるのがめんどくさいのだろう。だったら、こちらから視線を合わせにいけばよい。
この気づきは大きかった。後に寺子屋を開いて息子の友だちと一緒に遊んだり勉強したりを始めたときも、空手を子どもたちに教えるようになったときも、話をするときは基本的にこちらがしゃがむ。これもきっちり「しゃがんで」こちらが能動的に視線を合わせにいくことが大切なのだ。最初は中腰ぐらいでやっていたのだが、それでは中途半端だし、こちらも苦しい。
逆に言えば、威圧的に話すときにはあえて上から大きな声を出すこともある。本当に何か注意しなければならないときは、こちらが効く。でも基本は相手の視線に合わせるのは、あくまで自分である。そして何よりこの姿勢を取る意味は、子どもたちに、こちらの意図が伝わることにある。
彼らはもちろんコミュニケーションがどうのとか考えているわけはないし、視線を合わせる大切さなどを意識しているわけではない。ないけれども、こちらが動いて視線を下げる意味、つまり「君と話をしたいんだよ」という意図は確実に感じとる。そこからである、子どもとのコミュニケーションが始まるのは。
一方的に命令し続けるだけなら、ずっと上から声をかけ続ければいい。でも、そういう状況の中で育った子どもは、もしかしたらコミュニケーション不全になる恐れもあるんじゃないだろうか。子どもともきちんとコミュニケーションをするなら、子どもの話を『聴く』ことが必要だと思う。
昨日のI/O
In:
『絶望の世界史』金子光晴
Out:
ANAインターコンチネンタルホテル広報さん・インタビューメモ