ズリパンの不利さについて


腰下ざっと20センチ


ズリパンである。あれが美観的に美しいのか醜いのか、はたまたパンツ丸見え状態は法的にみて公然わいせつ罪などの問題がないのかどうかはさておく。ここでは純粋に武道的にみてズリパンがどうなのかを少し考えてみたい。


町中に引っ越してきたからだろう、道を歩いていると前にズリパンマンを目にする機会がちょくちょくある。そのいささか間延びした後ろ姿を見ていると、あれはまずいんじゃないかと人ごとながら心配するのである。


しかも、たいていずり下がったジーンズの尻ポケットには、財布が無造作に突っ込まれている。あれじゃ「財布をずばっと引き抜いて、ついでにちょっと膝の裏でも蹴ってカックンしておけば、もう後を追っかけられる心配もなかろう、恐らくはズリパンじゃまともに走ることもできないだろうし」などと悪い奴に思わせるのではないか。


というぐらいに無防備な姿に見えて仕方ないのだ。それでいいのだろうか、というのがズリパン姿を見るたびにわき上がってくる問題意識である。ズリパンの方々にとっては、まったく余計なお世話でしかないとは思うのだけれど、さて。


まったくもって奇妙な意識の持ち方なのかもしれないが、とりあえず公衆便所でオシッコをするとき、ものすごく緊張する。なぜか。用を足しているときに後ろから前蹴りでもくらわされたら、どうしようもないなあと思ってしまうからだ。


こんなことを書くと「なんて被害妄想な奴なんだ」とか「実はお前がいつも誰かを狙ってるんだろう」などと誤解されかねないかもしれないが、本人としては純粋に不安なのである。


だってねえ、人間が一番無防備な姿を他人にさらしているのが、公衆便所で小をしているときだとは思いませんか。なぜ、そんな妙なことを考えるようになったのかといえば、これは塾長の教えが原点にある。そもそも、そんなことを思うようになった時期は、空手を習い始めてしばらく経った頃だったと記憶する。


うちの塾長が初心者にしつこいぐらいにおっしゃっていたのが『残心』である。残心とは、いついかなる時でも相手が襲ってくることを意識し、的に備える構えを解かない心づもりをいう(のだと思っている)。稽古や組み手の時には、この残心をすぐに忘れてしまうにもかかわらず、なぜかオシッコしているときには残心を強く意識するようになったのだ。


「ならば大の方はどうなのだ?」と問うなかれ。こちらは基本的に個室の中でのこと、しかもドアにはカギをかけている。だから小のように無防備な姿を人目にさらすことはまずない。よって少なくとも日本では、まず安心できるのである。そりゃ中国の田舎みたいに「えっ、まわりに壁が何もないんですけど!」状態のトイレともなれば話はまた変わってくるのであるが。


閑話休題


ズリパンマンの話であった。彼らがあのように背後に対して無警戒でいられるというのは、日本がよほど平和な証拠なのだろう。そのこと自体は決して悪いわけではない。まさか町中で、いきなり後ろから蹴られて、財布を盗られる、なんてことは彼らの頭の中には一切ないに違いない。


が、それでいいのか、と問いたい。あそこまでズボンがずった状態では、下半身を迅速かつ的確に動かすことはできないだろう。ということは、仮に腕力なら負けないぜ、という腕自慢でも、肝心のパンチが相手にあたらない可能性が高い。仮に当てることができたとしても、よほどの幸運にでも恵まれない限りジャストミートは難しいだろう。技の起こりは基本的に足からなのだ。


武道的にズリパンは極めて不利だといわざるを得ない。もとより武道的といっても何も戦うことだけを意味しているわけではない。そもそも武道の本質は護身である。いついかなるときでも、いかにして生き延びるかを考えて備えること。これこそが武道なのだ。その意味からして、はなから護身に対して不利な状況を自ら作り出すのは、どうなのだろうという問いかけである。


もちろん日本はとても平和な国である。町中を歩いていて、いきなり後ろから蹴りつけられるようなことはあり得ないはずだ、少なくとも今のところは。しかし、万が一、そういうことを平気でする手合いが出てきたら、ズリパンは極めて不利である。そのことだけは、しっかりと覚悟されておくべきだろう。ということを、もしかしたら一度も意識したことのないような方々に、ひと言お教えしたいと思った次第。


それにしてもズリパンを好まれる方たちは「肉食系」「草食系」のどちらが多いのだろうか?



昨日のI/O

In:
『「価値組」社会』森永卓郎
『中国報道の「裏」を読め』富坂聡
海辺のカフカ村上春樹
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昨日の稽古: