世界の多様さを考える


COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2010年 02月号 [雑誌]

COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2010年 02月号 [雑誌]



このエントリーは、R+さんから送っていただいた献本『クーリエ・ジャポン2月号』についてのレビューです。


「この世での生は真のムスリムにとっては苦しみなのだ(クーリエ・ジャポン2月号、61P)」


アフガニスタンで戦うタリバンの若者は、こう語った。この若者は自爆テロ犯の訓練を受けているという。現世で生きることが苦しみでしかないなら、その苦しみから解放される方法はただ一つ、死ぬこととなるだろう。だから彼らは自爆テロを厭わない。このようなロジックで凝り固まっている人間に対して、人の命の尊さをいくら語ったところで接点は見つけられないのかもしれない。


そして

彼らは、私を(筆者註:この記事を書いているニューヨーク・タイムズの記者デヴィッド・ロード氏のこと)ーそしてどうやらすべての欧米人をー道徳的に腐敗していて俗世の快楽を追い求めることしか頭にない人間と見なしていた(同書、61P)

だから、欧米人は殺されて当然、百歩譲ってたとして、殺されても仕方がない人間と見なす。


こちら側の論理で考えれば、タリバンのロジックはとてもじゃないがまともとは思えない。しかし、タリバンの考え方を基準にするなら、こちら側の言っていることなど、とうてい理解できない類の話となるのかもしれない。もっともタリバンたちが、彼ら以外の人間の理屈をわかろうとしたことがあるのかどうかは不明だけれど。


クーリエ・ジャポンで毎号、いちばん刺激になるのは『WORLD NEWS HEADLINE』のコーナーだ。もちろん特集も十分におもしろいのだが(特に今号のテーマは「次の、ITライフ」なので興味津々なのだけれど)、それよりも世界にはかくも多様な世界観、考え方の存在することを知るのが、自分にとっては何よりもの刺激剤となる。


例えばタリバンのいう腐敗をキーワードとするなら、他にも似たような考え方をする人たちが世界にはいる。同書、57ページには

腐って病んだ社会、それがまさに資本主義社会の真相だ

と主張する北朝鮮・労働新聞の記事も紹介されている。確かに特に最近は資本主義の歪み、あるいは限界を感じないこともない。とはいえ今まさに自分の生きている社会を「腐って病んでいる」と断じられると、それはどうかと考え込まされる。


まさに、この「考え込まされる」プレッシャーが大切なのだ。そのための得難いキッカケを与えてくれるのが、この雑誌の最大の価値ではないか。


なぜ、北朝鮮の人たちは、あるいはタリバンたちは、自分には理解できないような考え方を平気でするのか。なぜ彼らは、自分たちと考えを異にする人たちに対してかくも非寛容なのか。その背景には何があるのか。佐藤優氏風にいえば、彼らの内在的論理はどうなっているのか。


そもそも、なぜ世界はかくも多様性に富んでいるのか。多様性は適者生存の法則が成立するための大前提、と頭ではわかっているつもりなのだが、それでも冒頭のようなタリバンの若者の言葉を読まされると、そこまでの多様性は必要ないではないかと反論したくなる。


タリバンの出現も歴史の必然と受け止めるしかないのか。それとも、今タリバンとなっている人たちも、現状とは違った環境に暮らしていれば、もしかしたら別の考え方を持つようになっていたのだろうか。もちろん特別なのは、タリバン北朝鮮だけというわけではない。


同じコーナーには、インドネシアのある州で、特定の罪を犯したものには「石打ち死刑」を科す地方条例が可決されたというニュースもある(同書、57P)。犯罪者に対して死ぬまで石を投げつける刑……。


もっとも石打ち死刑を残酷だというのなら、アフガニスタン無人飛行機を飛ばし、タリバンもろとも罪のない人たち(そこには子どもも含まれる)にミサイルを撃ち込むアメリカ軍のやり方はどうなのか。考えても答えのでない問題ではあるが、そうした問題が世の中には確実に存在していることをクーリエ・ジャポンは教えてくれる。


そして、まったくありきたりな話になってしまうけれど、経済的にこそやや衰えがみえるとはいえ、いかにも平和な日本で暮らせることの幸福を思う。


世界は広く、本当にさまざまな考え方をする人たちが、同じ地球の上に暮らし、そして死んでいっている。その事実を月に一度、ある種の警鐘として気づかせてくれる貴重なメディア、それが私にとっての『クーリエ・ジャポン』だ。



昨日のI/O

In:
『現場の変革、最強の経営 ムダとり』山田日登志
Out:


昨日の稽古:富雄中学校武道場

・基本稽古
・移動稽古
・ミット稽古
・組み手稽古