原稿用紙とモニターの違い


毎日、原稿用紙換算で30枚から50枚

お盆明け以来、まとまった原稿仕事があり、ひたすら毎日書いてきた。というか正確にはキーボードを打ち続けてきた。おかげで、この3週間ほどの間に、前腕部分が少し太くなったような、あるいは固まってしまったような。正拳をきっちり握ろうとすると、肘先から手首に向かっている筋肉が痙る。


あるいは両手共に、人差し指に力を入れようとすると(例えばボトルのキャップをひねったりするときですね)違和感を覚える。おそらくは、相当に前腕の筋肉を酷使していることになるのだろう。今のところ、何もしていないときに痛みを感じるほどではないので、大したことはないと高をくくっている。


ざっと原稿用紙換算で300枚分ぐらいの原稿を、とにかく10日間でざっと書きあげて、それから直ちに、また10日間ぐらいかけて第二稿を書いていった。毎日書いた。ひたすら書いた。時間があったらキーボードを打った。それだけ原稿を書き続けていると、たぶん、他にもいろいろと体にダメージが蓄積されているかもしれない。もっとも、今年の夏はそんなことより何より、熱によるダメージの方がよほどきつかったけれど。


ともあれこの間、ほかの仕事は、レギュラーでいただいている仕事を何とか最低限こなし、それ以外はこのブログも、メルマガも、ほかのいろんなサイトへの投稿も全部、完璧にお休みである。すみませんです。


ところが、そうやって毎日朝から晩までキーボードを叩き続けていると、なぜか無性に字を書きたくなるのだ。不思議ですねえ。それも日頃の取材時のような殴り書きではなく、できれば万年筆で、きっちりした字をノートに書き綴りたくなる。理由は不明である。


もちろん書くスピードは、まったく違う。手書きが歩く速さどしたら、キーボードはF1並みである(とまで言うと、さすがにちょっと大げさかもしれないけれど)。だから、文章を手書きするのは、もう無理かもしれない。あまりに書くスピードが遅すぎて、考えていることを思うように書き出していけないからだ。


とはいえ、もしかすると、自分の文章がつたない原因は、そこにあるのかもしれないと反省したりもする。つまりきちんと詰めて考えていない内容を、思いつくままに書き散らかしているがために、文章としての緻密さや精度に欠けるというわけだ。もちろん、自分の書くモノにそうした欠点があることは自覚しているから、少なくともお金をいただく文章については、何度も読み直して推敲するよう心がけてはいる。それでもだめ出しを喰らうことが多々あるのが悔しいけれど。


だから、一瞬思った。


もう一度、原稿用紙に書いてみてはどうなのか、と。Macを使い出す前は、手書きしていたのだ。その頃勤めていたデザイン事務所のオリジナル原稿用紙(これがB4サイズと大きくて、紙質も良くて、書きやすかった)に、0.7ミリ径と太めのシャープペンシル、芯はBと柔らかいのを使って、一字一字きっちりと書いていたのだ。


では、その頃書いたモノは、一体どれだけの出来栄えだったのか。と昔の作品を引っ張り出してみるに、これがやっぱり大した原稿じゃない。原稿用紙に手書きする故、書き出す前に今よりは時間をかけて考えていたはずだが、下手な考え休むに似たりという。いかんせん文章作成能力が低いのだから仕方がない。


それなら、以前よりは文章作成経験をいささかなりとも積んだ今ならどうだろうか。


真っ白と言うよりは、少し生成り色をした目に優しい原稿用紙に、ペン先の良く滑る書きやすい万年筆で文字を紡いでいく。浅田次郎先生などは、未だに手書き原稿だと聞く。あるいは最近聞いた話だけれど、横山秀夫先生もそうだという。


ざっと20年前よりは、少しぐらいは上達したはずの原稿作成能力を活かして、さらさらと原稿用紙に文字を書き連ねていき、それがベストセラーとなる。なんてことは、残念ながら起こらないだろうな。


だいたい手書きで300枚書いたりしたら、一体、どれぐらいの時間がかかるのだろうか。想像するだに恐ろしい。しかも手書きなら、使うのは右手だけである。若干の偏りはあるにせよ、左右両手を使うキーボードの方が、体のバランス上はよいのではないだろうか。


それでも、原稿用紙に手書き。いつかやってみたい。

昨日のI/O

In:
梅沢由香里棋士インタビュー
Out:
エフエム京都取材原稿

昨日の稽古:

ストレッチ