なぜ組織はダメになるのか


正月からこっち、たまたま二人の学校の先生と続けて話をする機会があった。方や20代で新進気鋭の先生、もうお一人は私の小学校時代の同級生、ということは50歳を超えている方である。お二人とも、現在の学校とその学校によって運営されている教育システムに対して、多大な危機感を抱いておられた。


若手の先生が指摘されたのは、学校トップの事なかれ主義である。あくまでも彼の勤務するエリアでの話ということを、最初にお断りしておく。そこでの校長先生の仕事に対するモチベーションは、校長を上がった後、次にどのようなところに転職できるかにかかっている。そのために何より大切なのは、校長として過ごす何年かの間に問題を一つも起こさないこと。これに尽きる。


仮に、何かしらの粗相をしてしまうと、校長先生としての、つまりは学校をマネジメントする立場にある人間としての評価が著しく下がる。だから何ごとにおいても瑕疵のないことが、判断基準となる。そうした判断基準に従う方が、例えば若い先生の意欲的でうまくいけば画期的な効果を上げるかもしれないけれども、失敗する可能性も残るアイデアに対して、どのような判断を下されるか。ことはおそらく自明の理といって良いだろう。


若手のフラストレーションは溜まるのである。


意欲的な若手を押さえ込むのは、何も校長先生のようなトップだけではない。民間企業ならば管理職に相当するような年齢の先生方もそうである。彼らもまた、自分に対する評価によって出世が決まる。それなりの年齢に達したときに、めでたく教頭先生になり(聞くところによれば、学校で一番の激務を押しつけられるのは教頭先生らしいが)、無事に教頭を勤め上げて校長先生から、その後に至るまでのハッピーリタイヤメントを迎えるためには、そのキャリアプロセスの過程でつまづいてはいけないのだ。


だとすれば、その判断基準がどのようなものとなるのかは、容易に想像がつくではないか。そんな話を聴いていて、ものすごく納得したのは、いじめなどが原因で、自殺する子どもが出たときの学校側の対応である。とにかく学校サイドとしては、絶対にいじめがあったなどとは認めてはいけないのである。それを認めた瞬間に、校長先生のキャリアは断ち切られることになる。もしかしたら教頭先生も同罪となるのかもしれない。


だから「いじめはあったかもしれないが、それが直接、自殺の原因となっているかどうかは不明である」式の、まさに意図不明な説明に終始することになる。その姿勢からは、正義や不幸にも我が子を失った親御さんに対する配慮は感じられない。と責めても仕方がないのかもしれない。だって学校の責任を認めた瞬間に、自分の経済的な将来も栄誉も何もかもを失ってしまうとすれば、人はジタバタしてしまうのも宜なるかな


しかしである。そもそも学校とは、何のための場所なのか。人の未来を創っていく子どもを慈しみ、育てる場ではないのか。そんなこと、お前などに偉そうに言われなくても当たり前じゃないか、と学校関係者の方々はおっしゃるのだろう。その通りである。そもそも学校の本来の目的とは、次の世代の社会を継続していく人を創る場所である。


しかし組織は変質する。これはおよそありとあらゆる組織に、ついてまわる普遍の問題といってもいいのかもしれない。どのように組織が変質するのか。その組織が設立された当初持っていた目的ではなく、その組織で食っている人間にとって都合の良いように変質するのである。その組織特有の自己防衛機能が、いつの間にか育まれるといっても良いのだろう。これもある意味、当然と言えば当然の話である。


何らかの目的を遂行するために組織を作ったとしよう。ところが、その組織があまりにも脆弱で継続できないようなものだと、目的自体を遂行することができない。しかし、組織が継続し始めると、往々にして継続する組織の目的は、組織の継続そのものに転化されがちである。これを誰かは「権力は腐敗する」と言っていたような気がする(うろ覚えだけれど)。


と考えれば、話は少し飛ぶが、新聞の凋落も理解できるのではないか。本来なら社会の木鐸として機能することを目的として創設された新聞社のほとんどが、今や新聞社の継続を目的としている。だから記者クラブ問題に象徴されるように、今の新聞社は明らかに一つの利権集団と化している。今の新聞社をして、社会の木鐸と認める人はあまりいないのではないか。


では学校はどうなのか。もちろん、子どもと毎日接している先生たちのほとんどが、真摯に子どもと向き合い、一人でも多くの子どもが、少しでもより良く育つよう考えて、行動している。しかし、そうした真面目な先生ほど、厳しい状況に追い込まれかねないようなシステムになりつつあるという話も聴く。


仮に学校も当初の目的を見失い始めているのだとしたら、今一度、創業の原点に立ち戻ることが必要なのではないか。そのキッカケになるような制度的改革があり得るとしたら、恐らくは校長先生、教頭先生など先生方のトップに立つ方の評価システムを変えることだろう。どこかの教育委員会で、そうした思いきった制度改革をやらないものだろうか。


昨日のI/O

In:
『街場の大学論』内田樹
Out:
J社インタビュー原稿

昨日の稽古:富雄中学校武道場

縄跳び、けんけん鬼ごっこ、基本稽古、移動稽古、ミット稽古、組み手稽古