顔に人生が表れる


大人の流儀

大人の流儀


一国の首相の格は、その国の力の鏡ではないのか。
/『大人の流儀』伊集院静講談社、2011年、35ページ


伊集院氏は、その著書の中で鳩山前首相に怒りをぶつけている。その辞任のあいさつの余りの軽さに腹を立てているのだ。その下りで、引き合いに出しているのが、辞任前日に鳩山氏が対談した、中国の温家宝首相である。

世界最大の政党である中国共産党の果てしない階段を頂上まで登るという私たちの想像を超えた反省が、その顔にはっきりと表れている(前掲書、35ページ)


翻って、わが国の首相はどうか。安倍、福田、麻生そして鳩山と、ほぼ一年周期で首相の首はすげ替えられてきた。安倍、福田、鳩山の三氏に至っては、職務放棄である。


でも、まだ、その方がマシだったのかもしれない。彼らは、少なくとも自分が首相の器ではないと自覚し、あるいはやめざるを得ない状況にあることを理解し、その座を下りていった。だから、日本国は壊れそうになりながらも、なんとかまだ国としての体を保ってきた。


壊れそうな国を必死に支えてきたのは、日本の企業である。ところが、その日本の最後の砦とも言うべき企業の少なからざるトップが「このままでは海外に移転せざるを得ない」と語っている。なぜなら、あまりにも日本の政治がひどいからだろう。


ひどい、という言葉ぐらいでは、現状を正しく表現できていないかもしれない。日本の政治は死んでいる、と言った方が正しいか。あるいは腐っているぐらいのことはというべきか。


仕事柄、企業トップから話を伺う機会が多い。トップによく尋ねる質問は「どうやって決断するのか」である。返ってくる答で多いのは「最後は勘」とか「直観的に」「思いつきで」など。


ただし、ほぼ共通している前提条件があって、それは「死ぬほど考えた後に」である。当たり前だ。企業経営は、人モノ金情報といった変数を、自社と自社を取り巻く環境の中で、最適化することによって成り立つ。単なる勘、直観、思いつきで経営は成立しない。


これが一国の運営ともなれば、変数はより多くなり、複雑に絡み合うことだろう。それでも最後には思いきった決断が求められる。そこで決断できないようでは、そもそも首相となるべき器ではなかったということだ。


ところが、一見思いきった決断をしているようでありながら、その決断に至るまでに、何の熟慮もされていなければどうなるか。例えば、一晩のうちに焼き肉屋と寿司屋とイタメシ屋をはしごし、そこで出会ったイタリア人ジャーナリストの言葉を受けて、コロッと考え方を変えてしまう。


そんな人物を首相にいただいているのが、現状ではないのだろうか。与党の参議院議長が「一刻も早く首相を辞めさせるべきであり、そのためには一事不再理の原則を崩してでも、内閣不信任案を提出すべきだと呼びかけている。西岡参議院議長は、野党の自民党ではなく、与党の民主党の大物である。


一体、何がどうなっているのか。


時おり、ニュースで見かける、恐らく自分では意気揚々と言った気分で、首相官邸に入ってくる人物の姿を見るたびに、暗澹たる思いになる。そして、前回の選挙で民主党に投票した自分の不明を、心から後悔する。


この国は、私の祖国は、どうなってしまうのだろうか。



昨日のI/O

In:
『大人の流儀』伊集院静
Out:
C社プレスリリース原稿
S社50年史原稿


昨日の稽古:

肩ほぐし、懸垂、加圧散歩