一つの区切り


合計6人


ちょうど10年前のこと、私の師がある方から道場を一つ引き継がれた。その方は本格的に空手指導をするつもりで生徒募集をかけたのだが、思うように生徒が集まらなかったのだ。そこで仕方なく、その方の弟子筋にあたり、私の師でもあるNさんに後を引き継いでもらえるようお願いされた。

生徒がいないんです。なので、誠に申し訳ないですが活気をつけるために稽古に来てもらえませんか

と声をかけられた。その道場は、当時住んでいた家から近く、クルマで5分かかるかどうかの場所にある。稽古回数が増えるのは大歓迎である。そこで息子と二人で最初の稽古に出向いた。


その時の人数が私たち親子を含めて6人だった。師、小学生の女の子が二人、幼稚園の男の子が一人である。道場となった中学校の体育館はあまりに広く、初心者の3人はとまどってほとんど声も出ていなかった。幸い、息子は幼稚園児ながら、何ごとに対してもまじめにがんばるタイプである。彼が一生懸命声を出し、私も彼を見習って声を張り上げた。


つられて幼稚園の男の子も思いきって声を出してくれた。そんな状態で空研塾・富雄中学道場はスタートした。


やがて師はいろいろと忙しくなられ、自宅が近かった私が指導を任されることになった。子どもの数はすこしずつ増えていき、最盛期には30人ぐらいが通ってくるようになった。幸い、一般部の熱心な方がいつもご夫婦で指導を手伝ってくださった。


当初は体育館で稽古をしていたので、マットやバレーボールなどの備品もどんどん使わせていただいた。マットで前転や後転、側転、時にはちぃ〜てん、くうてんなども取り入れ、バレーボールを使った膝ぬきの稽古などにも挑戦してみた。


数年後、当時の師範代が辞めたときには、月曜日に富雄道場で指導し、木曜日と土曜日には別の場所で指導することもあった。何しろ急に師範代が辞めてしまったために、指導体制が整わなかったのだ。何人かいた指導員の中で、いちばん時間を自由にできるのが自由業(=自営業)の私である。ということで、一時は週に3回の稽古指導を受け持っていたのだ。


この頃、稽古を優先するか、仕事第一で行くかを悩んだ末、稽古を取った。結果的には、これが後々にボディブローのように効いてきたわけだが、稽古自体はとても楽しかった。


なぜなら小学生はとても素直で、稽古の成果が確実に出たからだ。持って生まれた運動神経の違いは確かにある。が、一人ひとりに対して、その子のことをきちんと見ながら教えてあげれば、うまくなる迄の時間こそ違うものの、必ずみんな進歩する。他人との比較ではなく、例えば半年前のその子との比較といった見方をすれば、みんな確実にうまくなっているのだ。


これがうれしかった。


誰が見ても「うまくなったなあ」という子どもがいる。でも、私が何よりうれしかったのは、私の目で見て半年前より確実に進歩している子どもたちだった。その進歩は、よその子どもと比べれば「えっ、どこが進歩したの?」というレベルなのかもしれない。でも、例えば柔軟体操でおでこさえ床につかなかった子が、いつかあごまで付くようになっている。


これは何もしなくてもできるようになることでは絶対にない。家でお風呂上がり(をすすめていた)か、テレビを見ながら(これもご推薦である)柔軟体操をしていたからこそ、できるようになったに違いないのだ。それを認めて、ほめる。その時の、子どものうれしそうな顔。


その、うれしそうな顔を見たときの、こちらの喜び。回し蹴りがうまくなる、二段蹴りができるようになる、受け返しができたり、組み手をして今までなら泣いていたところで、ぎゅっと唇を噛んでがんばれるようになったり。


そんな子どもたちの姿が、どれだけの勇気を自分に与えてくれたことか。仕事を断りがちだったために収入は激減したが、それを補って余りある宝物を子どもたちからもらった。自分が年老いているため身体がうまく動かない分、子どもたちにわかりやすいように説明を尽くすことを心がけた。子どもと話すときのポジションの取り方にも気を配るようになった。


それらすべてが、結局は自分の学びになることを教わった。私にとっての学びの場であった富雄道場を誠にもって残念なことだが、今年限りで閉めることになった。理由はいろいろあるが、それはいっても詮無いことである。一つの時代が終わったと自分の中で踏ん切りをつけるしかない。


ただ、子どもたちが私に与えてくれた数多くの財産は、おそらく死ぬまで私の宝物として体の中にどこかに留まっていくことだろう。空研塾・富雄道場に来てくれた皆さん、本当にありがとうございました。


昨日のI/O

In:
『和子の部屋』阿部和重
Out:
ブックレビュー
Cmex講演原稿

昨日の稽古:

加圧ウォーキング、懸垂