文章は映像に勝てるのか


五感と一感の違い


映像体験と読書体験は、質がまったく違う。昨日の夕方、映画『永遠の0』を観に行って、こんな当たり前のことを改めて思った。新京極にあるシネコンは、ほぼ満席。小説がベストセラーとなり、映画も人気俳優を揃えているので、大ヒットしているようだ。


昨年の終戦記念日に、たまたま小説版『永遠の0』を読んだ。これがゼロ戦乗りを主人公とした小説だと知らずに、手にとってみたら、一気に引き込まれてしまった。昼前から読みだして止まらなくなり、確か、盆明けには何本かの〆切を抱えていたにもかかわらず、ノンストップで読みきった。


それぐらい強い吸引力を持った作品だった。途中で、何度も涙が出て困った。


そんなふうに自分を惹きつけた小説が映像化されたときに、どうなるのか。事前評価の高い映画であり、見に行った人の感想もたいていは大好評だっただけに、映像と文章の違いを、自分がどう感じ取れるかに関心があった。


映像はずるいな。
これが正直な感想である。


例えば、宮部に影浦が仕掛けた模擬空中戦のくだり。もちろん小説でも、宮部の操縦技術の高さは巧みな文章で表現されている。けれども、映像を見れば、具体的に宮部がどう飛んだのかが一目瞭然でわかる。そこに音が被さってくる。「迫真の」という形容詞は、こうした表現のためにあるのだろう。


映像は、ひと目でわかり、さらに音も加わって感性を刺激する。映画館で見る場合、臨場感のようなものも伝わってきているのだろう。隣で見ている人のため息やすすり泣きなどが、こちらの感情に何らかの影響を与える。


これに対して読書は徹底的に個人的な好意である。文章を目で追い、視覚から入力された情報が、脳内で何かに変換されることによって、理解に至る。


その意味は、ひと目でわかるようなものでは決してない。言葉と言葉のつながりから、意味を読み取るのは読み手の作業である。めんどうくさいのである。


だから、本を読むより、マンガを見るほうが楽で、さらに映画を眺めているとより楽ちんとなる。


けれども、実は、昨日映画を見ていて泣けたシーンは、一ヶ所しかなかった。橋爪功演じる井崎隊員が「わたしらの時代は、それを愛というたのです」と語るシーンである。泣き所は他にいくらでもある。実際、周りの人が、鼻をすする音が何度も聞こえた。


でも、自分が天邪鬼なせいか、先に小説を読んでいたからか。テキストと向かい合った時ほどには、泣けなかった。


これに理屈をつけるとすれば、映像はインパクトが強ければ強いほど、一義的な解釈を押し付けられることになるからであり、文章を読む場合は、読んだ文章から沸き起こる感情は、自分の中で自由に起こるものだから、といえるのかもしれない。


解釈はすべて、受け手の自由に委ねられる。それが文章である。だから、もしかすると書き手の思いが、そのままに伝わる可能性など、それこそ『永遠の0』パーセントなのかもしれない。けれども。伝えたい思いがある限り、書くしかない。


そんなことを思いながら、それにしても『永遠の0』の深みと高みをつくづく思い知らされました。前向きに表現するなら、自分の伸び代はいくらでもある、と思うことにしよう。がんばって書かなきゃ。


永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

昨日のI/O

In:

Out:
某ストーリー原稿

昨日の稽古:

ジョギング6キロ
ダンベルシットアップ・インクラベンチプレス・カール