多芸多才、異能の人



shareKARASUMA偉人伝、第6回目はデザイナーの中川葵(なかがわ・あおい)さんをご紹介します。


25歳にして、既に8回の引っ越し


鳥取に生まれ、広島で幼少期から小学校2年生まで、その後倉敷で過ごし、小学生5年生からは神戸で暮らした。大学で京都に出てきて寮に入り、その後一人暮らしを始めた。なぜ、こんなにも各地を転々としてきたのかといえば、父親が転勤族だったためだ。


そのために幼なじみができなかった。一方で、風習の異なる空間に、いきなり放り込まれる試練にさらされる中で、滅多なことでは動じない性格が育まれた。特別仲の良い友だちがいない代わりに、何をするにも、できるだけ大勢でやったほうが楽しいじゃない、と考えるようになった。


今風に言うところの、バリバリの『リケジョ(理系女子)』でもある。小学生の頃から科学実験が大好きで、年下の子どもたちを集めては、理科の実験を教えていたという。中学高校時代の得意科目は数学、高校時代は学年でトップ3に入っていた。


だからといって理屈だけの人、というわけではない。それはまったく違う。本を読むことが大好きな文学少女でもあった。


小学校5年生で編入した私立の小学校は、本来なら小中高一貫の女子校である。入ってくるはずのない転校生に戸惑ったクラスメートは、彼女を受け入れようとしなかった。彼女も、あえて周囲に媚びることをしなかった。まわりから浮いた彼女はイジメられた。もっともイジメられていたとは、本人は思っていなかったらしいが。


小学校6年生の時に、早くも3つの才能が花開く。


写真を覚えた。目の前に広がるきれいな風景を、自分のフレームで切り取って残す。誰かに見せるためではなく、自分のためだけのビジュアルメモワール。美しい記憶を撮り貯める。そんな感覚が、たまらなく好ましかった。


文章を書き始めた。最初は短い詩、それが少しずつ長くなって文章となり、やがて小説を書くようになった。中学時代のあこがれは小説家である。最盛期は高校1年生の頃、毎日3時間は書いた。ワープロで、縦書設定にし、プリントアウトしたら文庫本の体裁になるレイアウトで書くほどの凝りようだった。


深夜ラジオにハマった。毎晩12時から2時まで、Faxの前にかぶりつき、DJのSHINGO師匠(橘しんご)の言葉に即応する投書を繰り返した。現実的な職業として、ラジオのパーソナリティを考えるようになる。


そして中学1年生になった時、初体験とともに、おそらく今に通じる彼女のホスピタリティが芽生えた。彼女の通う女子校は一貫校だが、中学進学時点で外部からの入学者を受け入れる。いつも転校生として生きてきた彼女に訪れた、初めての機会。それは自分が、誰かを受け入れる側に回ること。


これまで、まわりにうまく受け入れてもらえず、つらい思いを重ねてきた。だからこそ、受け入れてもらえる喜びにひときわ敏感な彼女は、外部からの入学者を心から受け入れた。人を受け入れることが、自分に強い喜びを与えてくれることを知った。人の幸せのために、何かをすることが、自分を幸せにしてくれることを悟った。


大学のサークルで、いろいろなイベントで、いつも人を受け入れることに喜びを感じてきた。できるだけ多くの人を受け入れようと努めてきた。だから、彼女が関わるイベントには、自然と人が集う。


そんな彼女の今の仕事は、人を集めるためのデザインである。スイーツショップの販促物やウェブサイトのデザインを手がけている。その特徴は『ロジックに裏付けられたデザイン』であること。めざすゴールは「良いデザイン」ではなく「人を集めるデザイン」「売れるデザイン」である。


何のためにデザインするのかをいつも突き詰める。だからデザインの価値がブレることがない。もし、彼女の中の文学少女が顔を出せば「こんな感じのデザインが好き」となるのだろうが、リケジョの血も流れている彼女は「狙っているお客様に、言いたいことが伝わるのは、このデザイン」と考える。


一方でコピーを創るときには、積み重ねてきた文章修行の経験が活かされる。こなれて読みやすい文章。しかも、必要とあれば写真も自分で撮ってしまう。できる人は、何でも一人でこなしてしまう。


ひとりでも多くの人に受け入れてもらうためには、どうすべきかと発想し、コンセプトワークからフィニッシュまで手がけてしまう。これで社会人生活、わずかに3年。異能の人である。




昨日のI/O

In:
Out:
某学習塾本原稿
雑誌『配管技術』投稿原稿
某専門学校情報誌原稿

昨日の稽古:

ジョギング