命の重さの報道について


死者数、年間4,373人(平成25年度・全日本交通安全協会調べ)


昨日の夕方、ニュース番組を見ていて、何かが引っかかった。そのコーナーのテーマは、イスラム国の人質問題。コーナーを締めくくる語りでキャスターは、まず外務省の業務について触れた。


海外大使館などの邦人援護活動業務について、外務省には「そして,万が一,緊急事態が起きた場合は,日本人の安否を確認し,被害にあった人を助けるため全力を尽くす」義務がある、と述べた。


続いて、今回の2人が行方不明もしくはイスラム国に拘束されていることは、遅くとも昨年末までに掴んでいたはず。知っていながら、一体何をしていたのか。人の命の重さを、どう考えているのか。となじるような口調で非難していた。


申し訳ないが、ここで話は飛ぶ。


昨年末、阪神・淡路大震災被災者が語る「震災を振り返る」講演を聞いた。語ったのは、自ら被災者したテレビ業界の関係者である。彼が強調していたのは、現実はテレビ画面の外にあるということ。逆にいえば、テレビ画面は「何らかの意図を持って」切り取られた現実の一部でしかない。


例えば、東日本大震災が起こった時、テレビで流された映像のことを思い出してほしいと。放映されたのは、同じ映像の繰り返しではなかったか。何度も同じ映像しか流されないのにはわけがある。テレビ局の自主規制だ。万が一、画面の一部にでも、遺体が紛れ込んでいる映像を放映してはならない。これがテレビ局の自主規制の一つの例である。


であるなら、テレビ局も営利企業であるのだから、他にも自主規制が働くはず。つまりスポンサー筋に対して、不利益をもたらす報道に対しては少なくとも遠慮が働くだろう。


そこで、冒頭に戻る。


人の命の重さは同じ。命は何ものにも代え難い。これは抗いようのない主張だ。だから、たとえわずか2人とはいえ、その救出に日本政府は全力を尽くすべきだ。しかも、外務省は事態を早くから掴んでいたにもかかわらず、一体何をしていたのか。


このコメントに、瑕疵はない。コメンテーターの真剣な表情からは、正義の味方として政府を批判する真摯さが伝わってきた。なにげなく見ていて、「そうやなあ、あかんなあ。日本は何しとんねん」と何となく思った。


でも、他の国は人質問題にどう対処したのかな、と少し疑問に思った。するとアメリカやイギリスなどは、日本とはかなり異なる考え方で対処していることがわかった。人質問題に対しても、あるいは人の命の捉え方についても、世界には多様な考え方があるのだ。


そこで、冒頭に戻る。


じゃ、交通事故はどうなの、と疑問に思った。減ってきているとはいえ、それでも毎年4000名以上もの人が、事故で命を失っている。人質の2000倍である。これを政府は放っておいて良いのか。人の命が何ものにも代え難い、というのであれば、ここにも件のコメンテーター氏は着目すべきなのではないか。


それとも、現代社会とそこでの生活を営む上で、年間4000人程度の不慮の死者がでることは、やむを得ない条件と割り切って切り捨てているのだろうか。


そんなことをぼんやり考えながら、テレビが報道することよりも「報道しないこと」、画面に映ることよりも「画面に映らないこと」を意識することも大切だと思いました。


だって映像のインパクトは強烈だから。それを見せつけられたら、そこに描かれていること「だけ」が、現実だと思ってしまう。でも、きっと現実は、そんなに単純なものじゃない。


昨日のI/O

In:
希望の国エクソダス』取材ノート
Out:
勉強会テキスト原稿30枚・本の原稿10枚・テープ起こ40枚

昨日の稽古: