裁くつもりで物事を見る


空手大会の審判を務めた。一昨日のことだ。


といっても子どもの大会、しかも主審ではなく副審。なんだけど、これ
が得難い経験になった。何しろ緊張するのだ。


来賓がたくさん来られている。その中には我々の塾長はもちろん、他流
派の館長さんも10人ほどおられる。たとえ子どもの試合といえど、お
かしなジャッジは許されない。


となると、試合を観るときの集中力がぐっと高まるのだ。ふだん何気な
く自分にはまったく関係のない子どもの試合を見ているときをレベル1、
自分が選手として試合に出たときの集中力をレベル10とすれば、たぶ
んレベル9ぐらいまでは集中したんじゃないだろうか。


たとえ幼稚園児の試合でも、どの技が効いているか。両者を俯瞰的に見
て、どちらが、どう優れているかをいつも自問自答し続けていなければ
ならない。自分の判定理由を誰かに尋ねられるわけではないのだが、少
なくとも自分で自分に説明のつかないような判定をしたくない。


時に上段への回し蹴りが入ると、間髪を入れず、それが「技あり」に値
するかどうかを判断して、旗を上げ、笛を吹かなければならない。これ
がどうして、なかなか全身運動なのだ。


だが、そうやって全身をハリネズミのように(というと、ちょっと大げ
さだけど)集中して試合を見ていると、子どもたちの動きの見え方がい
つもとは全然違う。技を決めたり、決められたりした瞬間の心の揺らぎ
までが何となくうかがえる。低学年の子どもでも彼らなりに一生懸命に
闘っている気概が伝わってくる。


特に体の小さな子が大きな子に立ち向かっていく姿を目の当たりにする
と、どうしてもひいき目になりそうな自分を意識する。そんな時は、あ
くまでも公平に、冷静に判断しなければという理性と、ハンディに負け
ずに健気にがんばっている子どもを応援してやりたくなる自分の感情と
のせめぎ合いが起こったりする。


最終的にどちらかに旗を上げる時には、あくまでもシビアにならなけれ
ならない。冷徹なまでに感情抜き、中立的で公平な、もし理由を聞かれ
たら答えられるだけの根拠を持った判断が必要だ。そんな視点で試合を
見たことも、これまでにはなかった。


ここにも発見があった。身のこなし、技の巧拙にはっきりと違いのある
こと、子どもなりにきちんと戦術を考えている子もいること。そして、
やはり気迫の差がたいていのことをカバーしてしまうこと。戦っている
二人を裁く(そんな、えらそうにいえる資格はないんだけど)立場で見
たからこそ、浮かび上がってきた実態とでもいえばいいだろうか。


たった一日だけの経験だけど、とても非日常的な体験だった。その意味
では海外に旅に出かけたときと同じぐらいのリフレッシュ効果があった
ようにも思う。一日中ずっと立ちずくめだったので、体は疲れたけれど、
それも家に戻ってみれば心地よい疲労感となった。


そして『審判の視点』に気づいたことも、大きな収穫だった。これはい
ろんな局面で使えるモノの見方だ。特に自分が当事者となって誰かと対
峙している時に、審判としていまの状況を見るとどう見えるかを意識す
れば、その場で取り得る選択肢が広がるだろう。


こんなラッキーな体験をさせてくださった塾長、松原支部長、そして諸
先輩、その他関係者の方々に感謝します。押忍!







本日の稽古: