日本語の美しさとは何か


メールは白っぽく見えるように書きましょう。


ずいぶん以前のことだけれど、ある人から教えてもらってハッとした経験がある。どういう意味かといえば、むやみやたらと漢字を使いすぎるなということ。漢字をたくさん使うと画面が黒くなってくるでしょう。そんな文章は、見ただけで読む気をなくすというわけです。


そののちに同じようなことが書かれた本に出会う。『エディトリアルデザイン事始/松本八郎』の中に、次のような一文があった。


「漢字が五割近くも占めている文章なんて、いったい誰が読む気を起こしますか」


ほとんどの人がパソコンで文章を書くようになって、漢字の多いテキストが増えているんじゃないだろうか。スペースキーを一押しすれば、たとえば薔薇でも憂鬱でもすぐにでてくるのだから、これは便利だ。それに漢字をちりばめた文章は、何となく賢そうにもみえるしね。


でも、本当は違うのだ、きっと。難しいことを、どれだけわかりやすく書くか。ここにこそ労力が求められるのだ。いくらすばらしい考えを持っていたとしても、それが自分の頭の中だけで完結していたのでは、何の意味もない。考えは人に伝わり、そこで新たな解釈をされて、また人に伝わっていく。そうやって多くの人にわかってもらえてこそ、その考えは価値を持つ。


であるなら、まずはわかってもらうことが大切だ。そしてわかってもらうためには、読んでもらわなければならない。そのためには読む気になってもらえるように書くべきだろう。そう思って書いてきたのだが、ここのところ、もう一つ欲が出てきた。


キッカケは、スマップの歌。『トライアングル』の2番に次のような歌詞がでてくる。


<以下・引用>
無口な祖父の思いが父へと時をまたぎ〜
<引用・終了>


この「時をまたぐ」という表現にひっかかった。こんなことばがあるのだと思った。そして、これまでに自分がいかにことばに無頓着だったかを思い、もっとことばを選ぶようにしなきゃと思った。


そんなことを考えるようになってから『日本語大シソーラス』を引くことが多くなった。そして日本語とはかくも豊かな言葉だったのかと、この辞書を読むたびに思う。


一つのことを表すのに、これほどまでにいろんな言い方があるのは、それぞれの言葉には、それが収まるにふさわしい最適なコンテクストがあるからだろう。だから、言葉は、自分がもっとも居心地の良い文章にはめ込んでもらうことを待っているのだ。


何かを表現するときにどの言葉を選ぶのか。


このことに、これまであまりにも無神経だったのではないかと反省する。わかりやすい文章を書くためには、言葉選びも重要な課題だと思う。いわゆる「やまとことば」をもっと学ぶ必要があると思う。と同時に、漢文をもう一度、読むことも必要だと思う。


文章を書くことを生業としていながら、こんな大切なことに今まで無頓着だったことを恥ずかしく悔しく思う。とはいえ、ずっと気づかずにいるよりは、今からでも直していった方がいいわけだ。当たり前のことだけれど。


そんなふうに考えると、子どもたちの話していることばもとても気になる。日本語の乱れもそうなのだが、このままだと美しいことばを知らないままに大人になって行くのではないかと危惧する。ということは、美しい日本語が死語になっていくわけで、これは相当にまずい状況ではないか。


ことばは文化だ。だから時代とともに移り変わっていくのは当然で、それはいい。いいのだけれど、日本語には美しいことばがたくさんあるのだから、そうしたことばを使いこなす喜びを教えるべきだ。ほら、自分が何かをうまく表現できた時って、ちょっと得意というか気持ちよいでしょう。そんな感覚を子どもたちに教えるにはどうすればいいか。


これはロジカルにものごとを考えて、表現することと決して対立しないはずだ。




昨日のI/O

In:
『勇気凛々ルリの色 四十肩と恋愛/浅田次郎
Out:
『東条倶楽部』誌 吉田義男氏対談原稿




昨日の稽古:

 ・カーツトレーニング2セット、掌底