株式投資はバクチじゃないんだから


「夢託し・・・540万円損」


これは今朝の毎日新聞の見出し。ライブドア株上場廃止についての記事だ。個人投資家、それもおそらくは「にわか」投資家、ということは素人投資家でもあるわけだが、そうした人たちがいかにライブドア株で損をしたか、あるいはライブドアが弱者をどれだけひどい目にあわせたか、といった論調で記事は書かれている。


たとえばある62歳の無職男性は、

「偽物の商品を買わされたようなもの」と吐き捨てるように言った。


この人は月々わずかな年金だけで暮らしを立てている。退職金を含む貯金をライブドア株に注ぎ込み、大損をしたというわけだ。「ひっどいことする会社ですよね〜、ライブドアは」という声が、記事の後ろから聞こえてくるようだ。


かと思えば、同じく62歳の主婦の話として

損害は約150万円。「大きな失敗だったけど、勉強になった」と自分に言い聞かせるように話す。


株の取引はリスクが伴うので、ちゃんと勉強しなきゃね。素人が何もわからずに手を出すと危ないですよ、とでも言いたげな論調と取れる。


毎日新聞は経済紙ではないので、こうした記事もありなのかもしれないが、これだけでは、また第二、第三のライブドア悲劇が起こりはしないか。自らを社会の木鐸と考えるのであれば、もう少し突っ込んだ内容もあっていいのではないだろうか。


つまるところ、株式投資に関わるときのスタンスは、次の2つしかない。バクチか、出資を通じた価値創造への参加か。


そもそも株式投資とは、社会に対する何らかの価値創造をやろうとしているシステムに対して、その創造能力を存分に発揮させるために行うものだ。株式購入を通じて資本をそのシステムに投入し、投資家としてシステム運営が適切に行われているかどうかを監視する。これがバクチではない投資家のスタンスだと思う。


ここでいうシステムが企業体のことである。これは板倉雄一郎氏の受け売りになるけれど、企業は誰のものでもなく、価値創造のシステム(あるいはメカニズムといってもいいのかもしれないが)に過ぎない。このシステムをいかに効率的に運営するかが経営者に課せられた使命であり、システムを運営するために必要な資金を提供するのが、株主であったり、ときには金融機関であったりする。


だから、資金を提供する株主は、そのシステムがどんな価値を、誰に対して、どれぐらい産み出すのかを見極めない限り、おいそれとは資金提供に応じたりしないし、またすべきでもない。


そして、この対極に位置するのが数多くのバクチ投資家だろう。この人たちの基本原理は究極のところ一つである。それは「この株を買って、値上がりしたときに売って儲けたい」という欲望。これに尽きる。こうした人たちにとってはもっとも重要なのは、そして唯一注意するのは、株価の動きだけである。


投資先の企業が何をしているのか。どんな社長が率いているのか。その業界はどうなのか、景気がいいのか、悪いのか。レベルの差はあるとしても、それぐらいのことは見ているだろう。しかし、その会社が社会に対してどんな価値を、それぐらいのコストで創造しているのか、といったポイントまでは気にしない。


だから、たとえば

既成概念にとらわれない堀江前社長の言動に共感

して投資したり(既成概念に捉われないから、規制の法律にも捉われなかったんじゃないんだろうか)、

堀江前社長が、著名キャスターと対談する姿にカリスマ性を感じ「応援しようと」購入を決めた

りするのである。


これってバクチでしょう。んでもって、毎日新聞の書き方だと、イカサマバクチで金をすった人の立場で、イカサマをやった奴を悪いっていってるだけじゃないか。


そうじゃなくて、なぜイカサマを見抜けなかったのか。そこにはどんなイカサマがあったのか。本当の勝負には何が必要だったのかを、きちんと書かないとダメなんじゃないか。とちょっと義憤(なんて大げさだけれど)に駆られてしまいました。




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