親の力のすごさ


昨日、約200人ぐらいの子どもが参加する空手大会があった。


この大会にいつも一緒に練習している子どもが何人か参加し、その中の一人が見事に優勝した。学年別・性別に分けられている中では、もっとも参加者の多い小学4年の女子クラスでの優勝だから、とても価値が高い。


しかもこの大会には他流派からの参加も多い。どちらかといえば新人戦ではなく、中級者クラスの大会との位置づけでもある。その大会で初戦から一本勝ちを重ね、決勝戦でもまったく危なげなく本戦での快勝。見事というしかない。


この子は、もともと身体バランスがとてもいい。いわゆる運動神経のよい子である。柔軟体操、リズミカルな動きなどを一回で覚える目の良さに加えて、体の動かし方に天性の素質がある。入ってきてすぐに回し蹴りをきれいに蹴れることがとても印象的だった。もっとも合理的な体の使い方を特に教えられずにできてしまう。そうした子どもがいるのだ。


これまでの試合でも上位に食い込んでいたし、特にここ最近は強くなったなあと思ってみていたのだが、それが一つ抜けた。殻が破れて、違う次元に上った感じがある。


勝戦まではほとんど何の苦もなく勝ち上がった。決勝ではワザありこそなかったものの、誰が見てもはっきりわかる差がついていた。これはその実力によほどの違いがない限りは、そう簡単に出ない判定だ。


何が違ったのか。力が抜けたのだと思う。その結果、以前とはまったく違った点が二つあった。


一つは受け。相手の攻めを、たぶん一発も食らっていないんじゃないだろうか。もともと動きのよい子だから、ステップワークで回りながら相手の攻めをうまくかわすのが得意だった。が、昨日の試合で目についたのは、手の使い方がものすごく柔らかくなったこと。柔らかいということは力が抜けていることであり、ムダな動きがないわけだ。手での前さばきのうまさは、他の子とは位が全然違う。極端な話黒帯の師範の動きに似ているとさえいっていいぐらいの柔らかさだ。


さらに攻めで前蹴りを出せるようになったこと。これが大きい。前蹴りは直線的な攻撃だけに、うまく出せると入りやすい攻めである。しかし、蹴る方に恐さの残る攻めでもある。一つ間違えば、すごく痛い思いをする恐れがあるからだ。きちんと中足を返さずに蹴るとたちまち指をやられる。しっかり蹴り込んでも、相手に肘でブロックされるとやはり足先のどこかを傷めやすい。


だから逆に前蹴りをうまく使えると、特に子どもの試合では有効だ。そして前蹴りをタイミング良く出すためにも、やはり余分な力が抜けていることがポイントになる。蹴ってやろうと思って蹴るのではなく、スッと自然に出る前蹴り。以前から先生方にアドバイスされていた技を、昨日の試合ではうまく出せていた。この蹴りがあるから体格で勝る相手が、思いきって踏み込んで来れないのだ。出ようとしたタイミングで前蹴りを水月に合わされるのは、相当に嫌なもので印象に残る。これが危なげなく闘えた最大の勝因だと思う。


では、なぜ彼女は短期間に一皮むけたのか。


親の存在の大きさを痛感する。彼女の家族はお父さん、お母さん、お姉ちゃんと一家で空手をやっている。親子四人での同期入門である。ご両親はそれまでに空手などやったことがなかったにもかかわらず、精進を重ねて、ともに大会で優勝、準優勝されている。空手で頑張るとはどういうことかを、まさに背中で語っているのだ。


そして、稽古場では時に傍で見ていて「そこまで厳しくしなくとも」と思うぐらいの接し方をされてもいる。空手を習うとはどういうことか、その基本認識がご両親にまずきちんとあって、それを娘さんに伝えたいと思われてのことだろう。もちろん娘さんの素質は、親が一番よくわかるものだ。何とか伸ばしてあげたいという親心の強さも感じた。


そんなこんながあわさっての優勝である。自分はなにもしてあげていないけれど、この子と同じ道場にいることがとても誇らしかった。自分がうれしいなどというのはおこがましいぐらいだけれど、それでもうれしかった。この子やそのご両親と一緒に稽古できてよかったなあと思えた。


そしてわが子への対し方では、どうしても楽な方へ流れがちな自分の甘さを反省もした。加島さん、緋莉ちゃん、ありがとうございました。



昨日のI/O

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