芭蕉辞世の句と字余り


旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる


なぜか、この句がずっと気になっていた。高校生の頃に教科書で初めて目にしたときも「なんか変やな」と。だからといってそれ以降、別に俳句に特別な興味を持ったわけではない。が、時折どこかでこの句と出会うと、やっぱり違和感がある。なぜか。


字余りだからだ。


たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる


本来なら五七五で詠まれるべき俳句が、六七五となっている。しかも、この句は 詠もうと思えば普通に五七五でまとめられるのに。


旅に病み夢は枯れ野をかけめぐる


こちらの方が流れは断然いい。なのに、あえて芭蕉はつっかかるような六七五の方を選んだ。それが気持ち悪いというか、引っ掛かるというか。普段は忘れているのだけれど、何かの拍子にふと思い出したりすると、妙に気になる。もちろん芭蕉は、意図的に『旅に病み』ではなく『旅に病んで』と詠んだはずだ。それならば何らかの理由があるに違いないわけで、それが何かと気になっていたのだ。


そもそも五七五、あるいは五七五七七は、日本人の音感にとても心地よく響く言葉の流れである。なぜ、そうなのかは知らない。お隣の中国の漢詩、五言絶句とか七言絶句の流れを引いてのことなのかどうか、それも知らない。この方面についてはまったく素人なので、何となく関係ありそうとか、日本文化のルーツの一つは中国にあるのだから、おそらく元は中国か、ぐらいのことしかいえない。どなたかご存知の方がいらっしゃるなら教えていただきたい。


ともかく日本では五七五の俳句が一つの文化として定着した。


その俳句の巨匠が芭蕉である。その人が、自分が詠む最後の句にわざわざ字余りを持ってきた。そこには明らかな意図があると仮定して、芭蕉が詠んだ句と字余りにならない句を比べてみる。


旅に病んで夢は枯れ野をかけ巡る
旅に病み夢は枯れ野をかけ巡る


こうやってみると、この二句には明らかな違いがあることがわかる。余計な『で』があるのとないのとでは大違いだ。つまり五七五的に流れの良い後の句の方は、すっと流れていく。流れるように頭に入ってきて、そのまま出て行く感じだ。正直、いい句だと思う。


これに対して「旅に病んで」の方は、ここで引っ掛かるために句がいったん途切れるような印象を受ける。「旅に病んで」ガクッ・・・、「夢は枯れ野をかけめぐる」といった感じだろうか。うまく表現できないのだけれど、とにかく前の句で引き止められるような感覚がある。


ところが、この引き止め感が生きてくる。つまり、ここで流れがいったん切られてしまうために、後の句に躍動感が出てくるのだ。腕を掴まれて引き止められていたのが、その戒めを振りほどいて一気に飛び出すようなイメージ。だから「かけめぐる」という言葉が、この一語に込められた芭蕉の思いが生き生きと立ってくるといえばわかりやすいだろうか。


あえて前の句と後の句の流れを分断することで芭蕉は、句全体に躍動感を産み出そうとしたのではないだろうか。


さらには、前の句と後の句に対立構造を持ち込むことにより、伝えたいことをよりはっきりさせる意図も感じる。前の句が表しているのは、まさに今、死に臨んでいる芭蕉の現実であり、後の句が主張しているのは、そうした状況にありながらなお野をかけめぐらんと欲する芭蕉の強い意志である。


こうした句の深みを産み出しているのが、『で』のたった一語なのだ。『で』なし字余りなしの句が良い句なら、『で』あり字余りの句は、深い句である。きっと。


あ〜、スッとした(専門的には、まったく見当違いな解釈かもしれないけれど)。


昨日のI/O

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『Webブランディング成功の法則55/生田昌弘・株式会社キノトロープ
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