カンマ一つの厳密さ


カンマ一つに数億円


ゴルゴ13が外交文書にカンマを一つ銃弾で撃ち込み、同時にある人物を狙撃するのに受けとった報酬である(『隠されたメッセージ』SPコミックス77巻所収)。


なぜ、わざわざカンマを打ち込まなければならなかったのか。カンマ一つで条文の意味が完全に逆転し、中東が核戦争に陥るリスクがあったからというのが、ストーリーの流れである。


以前、翻訳については自分もほんの少しだけ関わっていたこともあり、内田先生のやり方を紹介したことがあった。

翻訳においてたいせつなのは「クライアントが読むことを欲しているドキュメント」を差し出すことであり、それに尽きるのである。「プロの条件」とは「自分に厳しく」ではなく、「クライアントに優しく」である。
内田樹「態度が悪くてすみません」角川書店、2006年、144ページ)
http://d.hatena.ne.jp/atutake/20060827/1156632839


すなわちまずは「意味がわかる日本語」を書くことが大切であり、そのためには「自分には意味のわからない箇所」はあえて「見落とす」方がよいと。付け加えて「訳し落とし」というのは「訳し違い」に比べると、はるかに実害が少ないとも書かれておられる。けだし慧眼である、などと書いたのだが、しかし、である。


もちろん、この翻訳手法が全面的に間違っているわけではない。速訳や概訳が求められる世界なら、そうした訳し方でも構わない場合も多々あるだろう。ただし確かにコンマ一つで英文は意味を変える。そして、その意味の取り違えが取り返しのつかないことにつながりかねないこともある。ということをつい先日、思い知った。医学文書の翻訳である。


PDQというサイトがある(→ http://cancerinfo.tri-kobe.org/)。がん情報を網羅したサイトで、米国国立癌研究所(NCI)が配信する Cancer Information Physician Data Query from National Cancer Instituteの情報を基に日本語翻訳したもの。このサイトの翻訳に深く関わっている方から先日、じっくりと話を伺う機会に恵まれた。


ある英文と、その翻訳例を見せられる。英文をざっとみて翻訳例に目を移すと、わかりやすい日本語になっている。「それがダメなんです」と彼女は指摘した。なぜ、ダメなのか。英文が本来伝えようとしているメッセージが曲解されているからだという。日本語として読みやすく、わかりやすくするがために、結果的には元の英文が言おうとしていることの逆の意味を伝えかねないことになると。


医学翻訳では、まず厳密な逐語訳、直訳こそが望ましい。


これは意外である。英語を、普通の日本人が読んで、いかにわかりやすい日本語に置き換えるかが翻訳だと思っていた自分には「えっ!」という話だった。が、詳しく話を聞けば、翻訳者の大半が自分と同じ勘違いをしているという。


もとよりわかりやすい日本語に訳すこと自体が間違っているわけではない。が、それは最終レベルとして目指すべき話であって、まずは正確な(より正しく言えば間違っていない)逐語訳こそが必要なのだ。なぜなら、医学レポートは、人の生き死にに直結する話だからである。


たとえば、ある薬を「飲んだ方がいい」のか「飲むべきなのか」。それはどういう条件の場合に当てはまるのか。こうした内容の英文がある場合には、条件指定も含めてきっちりと訳し込んでいく必要がある。わかりやすい日本語にしたいがために、適当に「飲んだ方がよさそうです」なんて訳してしまうと、それが処方となってしまう可能性もあるわけで、それは結果的にはとんでもないことを引き起こしかねない。


医療英語の翻訳とは、それぐらいの厳密さが求められる世界である。ということは、英語に対して虚心坦懐にというか、少なくとも英文法のルールに則って(書き手もその文法ルールには細心の注意を払って書いているのだから)、謙虚に向かわなければならない。カンマ一つの見落としや訳し間違いが原因で、最悪の場合は医療過誤が起こるリスクさえある。というぐらいの真摯な姿勢が翻訳者には求められるのだ。


言葉が人を活かし、殺す。感覚的には、そうした言葉の力を何となく理解はしていた。しかし、医療の現場ではもっとストレートに、言葉一つが人の生死をリアルに左右する。ことばの大切さ、重さを改めて思い知るインタビュー経験となった。



昨日のI/O

In:
『ウルトラダラー/手嶋龍一』
NHKの記者が、どうしてこれほどまでに各国諜報機関の内情を知ることができたのか。この小説にリアリティを与える登場人物の書き込まれ方に衝撃を受けました。
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昨日の稽古: