Twitter、ヤバくね?


Twitterが人気である。


これが何かといえば、自分が今やっていることをテキスト入力して公開するオンラインサービスといえばいいだろう。サイトにアクセスしたら「What are you doing?」といきなりたずねられる。これに答えてショートメッセージを書き込めば、それがあらかじめ登録しておいた友だちや、あるいはTwitterの全ユーザーに発信される。


そのどこがおもろいねん?


正直なところ、何がおもしろくて人気を集めているのかがさっぱりわからない。非常につらいことではあるが、Twitterを楽しめる人たちと自分の間にはものすごく深く暗いコミュニケーションギャップが口を開けているような気がする。そしてこのギャップを乗り越えることは、たぶんできないように思う。


独断と偏見でバッサリ切ってしまえばTwitterを楽しめる条件その一は、ケータイで短いメッセージをやり取りすることに喜びを見出せること、となるだろう。大した意味がなくとも、メールという人類始まって以来始めてのツールを使って反射的にメッセージをやり取りすることに何らかの知的興奮を覚える。そんな人たちでなければTwitterのおもしろさはわからないに違いない。


となると、これは世代間ギャップにもつながる話だと思う。たとえば今の十代のように物心ついた時からケータイを使い倒している世代には、Twitterはごくごく当たり前のメディアとして受け止められるであろう。一方、今の四十代以上のようにケータイといえばあくまで電話であり、ようやくにしてケータイメールを覚えつつはあるものの、やはり親指ピッピッピでは言いたいことを思うように伝えられんじゃないかぁ〜、ほんまにイライラするでと思っている人たちには、やはりTwitterは異形のメディアと映る。


そこで気になることが二つある。


一つには、そんな短文やり取り型コミュニケーションに馴らされていった人たちが、いざというときに複雑なコミュニケーションに対応できるのだろうかということ。もう一つは、ささいなコトなのかもしれないがTwitterタイムが、その人の貴重な時間を知らず知らずのうちに奪って行くことにはならないのかということ。


いかにもオヤジの戯言めいて申し訳ないが、少し付き合っていただけると幸いである。まず短文メッセージに慣れ親しんでしまうことのリスクについて。短文、しかもほとんど単文を書くことになれてしまうと、複雑な構造の文章を読み書きすることが苦痛になりはしないだろうか。まあ、読むことぐらいは何とかついていいけなくもないのだろうが、書く力が落ちることは間違いないと思う。


だって面倒だからね。しかも、長い文章を相手にわかるように書こうと思えば、それなりに考えなければならないし、いささかの訓練も必要になるだろう。面倒くさいことこの上ないではないか。そんなことに苦労しなくても、ショートメッセージでわかりあえるんだから良いじゃん的人間が増えることをオヤジはとても危惧する。


言葉を発する(声にしてにせよ、あるいは文字にしても)ことは、考えることと同義である。その言葉が短的、単的、端的になるということは、その人の思考も似たようなものとなる可能性が高い。それでいいのだろうか。そんな人が増えてきたときにどんな社会が到来するのだろうか。もしかしたら、ややこしいことを考えずに済むから、みんながとてもハッピーな世の中となるのかもしれない。その可能性を否定はしないけれども、それで日本が今の国力を維持できるとは到底思えない。


またTwitterは第二のミク中になる可能性が高いのではないか。そろそろ下火になりつつあるようだけれどもmixiが提示した新しいコミュニケーションスタイルは、確かにある種の欲求を確実にキャッチしていたのだと思う。知り合いが書いている日記(そこにはその人が、何を思い、どんな行動をしたのかが記されている)はやはり気になるわけだし、自分の知り合いが見てくれていると思えばこそせっせと日記を書くわけだ。これって、まんまTwitterじゃないか。


ということはmixiTwitterにシフトしただけで、やはりそれにはまって時間をとられる人がたくさん出てくるのではないだろうか。だから「Twitterイカン」なんてことを言うつもりはない。ただし、そうやって費やされる時間、その時間を使って交わされるコミュニケーションの質が、果たしてどんな影響を与えるのかと考えたときに、マイナスの側面もきっとあるのではないかと思う。


Twitterは諸刃の剣であり、もしかしたら人類が新たに開いてしまった『パンドラの箱」なのかもしれない。


昨日のI/O

In:
『おじさん的思考/内田樹
某ショッピングモール情報誌用取材
Out:
某社ソフト添付小冊子原稿


昨日の稽古: