もし村上春樹を読まなかったら


走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること


1978年4月1日の午後1時半前後


神宮球場の外野席で一人、ビールを飲みながら野球を観ていた村上春樹は「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立った。村上春樹と小説の出会いである。この出会いが村上春樹の人生を変える。


もちろん「変える」というのは第三者的な見方であり、村上春樹的人生においては予定調和的な出来事だったといえるのかもしれない。それはともかくとして。


私が村上春樹と出会ったのがいつだったかは、彼のようにピンポイントで日時までを思い起こすことはできないのだけれど、とりあえず夏だった。24歳だから1985年の夏の日曜日の午後8時ぐらいだ。場所は京都の北白川、別当町の交差点から白川通を少し北に上がった東側にあるコインランドリー。当時、社会人となって独り暮らしを始めていた私は、そこで一週間分の洗濯をしていた。


洗濯は洗濯機に放り込んでおけば良いのだけれど、洗い終わればすぐに乾かさなければならない。乾かさないと、たちまち明日から着ていく服はいうまでもなく下着も靴下もないような有様だった。だから洗濯が終わればすぐに乾燥機に入れようと、コインランドリーのパイプ椅子に座って待っていたのだ。


そのとき暇つぶしに読んでいたのが村上春樹の『風の歌を聴け』だった。サントリーのたしか「純生」という缶ビールを二本、ちびちび飲んでいる間に読み終えたことを覚えている。そして、何だかわからないのだけれど「このままじゃいけない」と強く思ったことも記憶に残っている。


大学を出てなし崩し的に入った会社は印刷ブローカーみたいなところだった。そこでしばらくの間は、印刷屋さんや加工屋さんまわりをしていたのだ。特にその仕事をしたくてやっていたわけじゃないし、そもそもその会社に入りたくて入ったわけでもない。他に採用してくれる会社がなかったから、そこに行かざるを得なかっただけのこと。入社する前から2年間働いてお金を貯めたら、とっとと辞めてインドに放浪の旅に出るのだと決めていた。


ぐだぐだと過ごしていた日々にのみ込まれそうになっているときに、村上春樹と出会った。そしてストレートに物書きになりたいと思った。その思いが自分の中である塊となった。


わざわざ文学部を選んで入ったぐらいだから(高校の先生はもちろん、友人も親もなんで文学部なんだ、就職に困るぞと散々いわれたにも関わらず)、漠然と小説家にでもなれれば良いなあ、というボヤッとした憧れのようなものはあった。が、さすがにいろんな人の小説を読み(特にドストエフスキーカフカの印象が強い)、一方で日記だか創作日記だかわからないようなものを書き続けていると自分が小説家には到底なれないことぐらいはわかる。


だから、まあいいかと思って、なかば諦める気持ちもあってとりあえず就職したわけだけれど。でも、どう考えてみても紙を運んだり、印刷物を断裁屋さんに持っていったりする仕事はもちろん、その後配属されることが決まっていた営業マンとしてやっていくことも無理なのだと、その夏の夜に思った。村上春樹との出会いが、大げさにいえば自分の人生の大まかな方向性を決めてしまったのだ。


それ以降は、そのとき自分の中にできた塊が命ずるままに生きてきたといえるのかもしれない。残念ながら未だに習作の一つも書けてはいないけれど、とりあえず何かを書くことを生業にはできている。この先、小説を書くことができるのかどうかは知らない。書きたいとは思っているけれど。


ただ、もしあのとき村上春樹を、あの状況の中で読まなかったら「このままじゃいけない」と強く思うことはなかっただろうし「物書きになりたい」とストレートに思うこともなかっただろう。


そんなことを『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで思った。


昨日のI/O

In:
『走ることについて語るときに僕の語ること/村上春樹
Out:
F.M.O中村社長インタビュー原稿
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昨日の稽古:

・レッシュ式懸垂、腹筋