稽古の意味


稽古をするほど弱くなる


最近,とみにそう思うようになった。といって歳を取ったからという毎度お馴染みの言い訳をするするつもりではない。また、稽古を積んできたが故に自分の要求レベルが高くなり、その結果自分が追い求める理想と現状のギャップを弱さとして認識する。というようなハイレベルな話でもない。


ニュアンスとしては「弱くなる」は「おもしろくなる」に近い。どういうことか。空手の稽古を始めて丸8年が経ち、自分がまったく強くないことに改めて気付いた。とはいえ強くなりたい気持ちに変わりはない。どうすれば強くなれるのかと思案するに、まだまだいくらでも稽古することは浮かんでくる。その稽古のことを考えると、おもしろさが増してくる。ややこしい話だけれど、そういうことだ。空手に対してこういうややこしいことを考えるのは、多分に空手に対する複雑な個人的思いと経験が関係しているのだろう。


もとより若い頃から空手に親しんでいたわけではない。が、まったく関心がなかったわけでもない。幼い頃に大山倍達にインスパイアされ(正確には小学生時代のマンガと実写が妙にミックスされた『空手バカ一代』をみてショエェ〜カッコええと感激し)、長じて浪人時代にはコミック版『空手バカ一代』を読みふけって毎朝走ったり、拳立て伏せに励んだりもした。その後学生時代には極真空手関係者が書いた本を読みまくったりしたぐらいには空手マニアである。


家で基本稽古の真似事をしたり、ダンベルで筋力アップに取り組んだりもしたが、結果的に道場に入門することはついぞなかった。これがマニアのマニアたる所以かもしれない。一つ年上の従兄弟が大学時代に極真会館で黒帯を取っていて「ごっつきついでぇ」などとビビらしてくれたことも入門をためらった原因だろう。勇気がなかったといえば、その通りである。


このような案配で空手に対して「いつかやってみたい」と憧れは持ちながらも、片方では「でも痛いし、恐いし」と脅える気持ちも強く抱えてきた。とはいえその後も小説を含めて空手関係の本は読み続けていたために知識だけは膨らんでいたわけだ。かなりアンバランスなスタンスではある。


そうやって40年を生きてきて、幼稚園児だった息子に背中を押されて入ったのが空手技術研究塾。渡邉直行塾長が指導されるフルコンタクト系の流派である。そこで週に2回から3回の稽古を続けてきて、昨秋黒帯を何とか取らせていただいた。思わぬ僥倖としかいいようがない。


この間を振りかえってみれば、確かに体は空手を始める前より少しは強くなった。一つにはどつかれたり蹴られたりしたおかげで、痛みに鈍感になったことがある。加えて、いろいろトレーニングを積んだおかげで、何もしなければ衰える一方だったはずの四十代体力低下ペースを少しは食い止めることもできたのだろう。


基本稽古、ミット稽古、組手稽古を重ねることで体に空手的身体懆法を身につけることもできた。だから、ある程度は我が身を護る術も修得できたかもしれない(あまり自信はないけれども)。


同時に、これまでに書物を読んで納得してきた術理と実践の違いに戸惑う機会も増えてきた。机上の空論はあくまでも空理に過ぎないのかと思うこともあった。しかし一方では自分が50歳間近となりわかってきたこともある。つまり過去に読んだ本を鵜呑みにしてはいけないということだ。


なぜなら、著者たちはいずれ劣らぬ武道家ではあっても、プロの文筆家ではない。なかにはゴーストライターが書いているケースもあるだろう。すると武道家が本当に伝えたいことが、それを伝えるに適切な文章表現には必ずしもなりえていないことが考えられる。そもそも武道の奥義は口伝だったのだ。師の教えを手控えしたものが、自分にとっての教本となるのだ。


これまたむべなるかな。武道とは極めていけばカスタムメイドにならざるを得ない。だって、教わる弟子は一人ひとり持って生まれた体格も性格も考え方も何もかもが違うのだ。しかも実際に武道を使うときには必ず相手がいる。相手だって一人として同じはずもない。ということは正拳突き一つとっても、どうすれば効かすことのできる技になるかはケースバイケースである。


もちろんベースとなる理はある。が、師がいつも同じことを注意するわけでもないだろう。仮に毎回同じことを言われているとすれば、言われている方にはまったく進歩が見られないということだ。だから師の教えは、ころころ変わっているように受け取れて当然なのだ。


それがまた、おもしろさにつながる。そして、新しいことを教えてもらっているのだから、最初は当然できない。つまりほんの微かにではあるけれども、自分がうまくなったとか強くなったとか感じるうぬぼれを、師はうまく挫いてくれる。だから、強くなりたいと思い続けることができる。


この師と弟子の関係は、結果的に師の教えを追いかけ続けることによって、いつの間にか弟子も強くなっていたという功利的なシステムではおそらくはない。最終的に弟子は(正確に言うなら、自らが新しい師となるためには)自らの師を離れなければならないのだ。あるいは師を離れるところまで行き着けたものだけが、次の師になる資格を持つ、つまり免許皆伝ということなのだ。


守破離」が意味するのは、このメカニズムだと思う。とすると、どうがんばってもそのレベルに達することのできそうにない自分としては、いつまでも師の教えを受けてよいわけだ。このことを心から幸運だと思う。


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