お箸の持ち方について



20人中ゼロ


先の日曜日、父の三回忌があった。親戚が集まってくれて法事を営み、その後みんなで食事をした。筆者があと三ヶ月で50歳になるわけで、集まっている人たちもたいてい年上の方ばかり。参加してくれた20人のうち、私より若いのは義弟、妹、家人、甥に息子の5人だ。


みんなで和食のコースをいただいているときに、ある違和感に気づいた。それはすごくささいなことだったのだろう、最初は自分が何に気づいたのかさえわからなかった。食卓についている人たちはみな、思い思いに談笑しながら料理に手を出している。


その手、指先、お箸!


そこで気づいた。違和感を感じたのはお箸の持ち方について。誰一人として妙な箸使いをしている人がいない。これである。最近は20人もの人と会して食事をする機会は滅多にない。とはいえ飲食店チェーンのコンサルを引き受けているので、お店には月一回は必ず顔を出す。


うどん店ともつ鍋屋。どちらでも目につくのが、いささか変わったお箸の持ち方をする人たちだ。これに違和感を覚える。若い人に多いということもなく、どの年齢層にもだいたいまんべんなくいらっしゃるような気がする。


だから、何なのだという話ではある。箸の持ち方が少々おかしくったって、その人の資質や能力には基本的に関係ないとも思う。ただ、ほんの一瞬ではあるけれど、そうした人のお箸の持ち方に目がいってしまうのも確かなこと。こうした癖がついてしまったのは、幼い頃に親から「お箸はちゃんと持ちなさい」といわれ続けて育ったからだろう。


三つ子の魂百まで、である。幼少時の刷り込み効果のなせる業といってもいいのかもしれない。


以前、茶道の取材をしていたときに教わったことがある。茶道では茶室内での振る舞いが、きめ細かく厳しく決め込まれている。なぜ、そんなささいなことまでルール化するのですかと尋ねて返ってきたのが「では、実際にやって見せますから、違いを感じてください」との答えだった。


詳しくは忘れてしまったのだが、何か布(茶巾だったと思う)のたたみ方である。最初は作法通りに、次はごく普通に、そのお師匠さんは二通りのたたみ方を実演してくれた。確かに違う。どこが違うのかといえば、段取りみたいなものであり、何となくの佇まいである。きれいなのだ。


細かいやりとりは覚えていないが、お師匠さんがおっしゃった言葉ではっきりと残っているのが「無駄のない動きは美しいのです」ということ。すなわち茶道の作法は極めて合理的であり、それはおそらく設えの美を追究する中で洗練されたのだろう。


逆にいえば、無駄のある動きは美しくないということなのかもしれない。ここで話を思いっきり飛躍させるなら、人は無駄を美しいと思わないように遺伝子的にプログラムされている、という推測も成り立つかもしれない。なぜなら、その方が生存に有利だからだ。あるいは無駄のない動きをする相手をパートナーとして選んだ方が、より生き残れる確率が高いと刷り込まれているのかもしれない。


箸の持ち方一つでえらく話がふくらんでしまったが、実際のところ、箸は正しい持ち方のほうが使いやすいことは間違いない。使いやすいということは食べやすいわけだから、食事をきちんと取ることにつながる。あるいはいろいろな命を犠牲にした結果食卓に並べられているものが食事なのだから、感謝の意味でも姿勢を正し、箸もきちんと持つ。


「お箸はきちんと持ちなさい」と両親が言い続けていたのには、そんな理由も含まれていたのかもしれない。


それにしても、忙しい忙しいとばたばたしているうちに、前回のエントリーから10日も空いてしまった。いくら時間がなくても、心まで亡くしちゃいけませんね。時間の使い方の無駄をなくして、美しく時間を過ごすようにしないと。という毎日の積み重ねが、もしかしたら美しい生き方になるのかもしれない。



昨日のI/O

In:
某上場企業N社トップインタビュー
Out:
某上場企業S社トップインタビューメモ

昨日の稽古: