なぜ『聞術』がないのか




『話術』はあるが『聞術』はない。なぜか?


そんなお題でのお話を昨日させてもらった。奈良文化財研究所が開催したボランティアガイドさんのための研修講演でのこと。元々はインタビュー術を踏まえて、人の話を聞くことの大切さなどを話してもらえないか、というオファーをもらっていたのだ。


ボランティアガイドさんたちはみなさん、話すことにはとても長けている。平城京や奈良についての知識もひとかたならぬものがある。そんな方たちに「聞くことの大切さ」を語る意味は何だろう? と考えているときにひらめいたのが『聞術』だった。


なぜ『話術』とは言うのに『聞術』とは言わないのか。


言葉がないと言うことは、その言葉が意味する内容、考え方もないということではないか。辞書を引いてみても『聞術』はない。ネットで検索してみても『聞術』はヒットしない。ということは話すための術はあっても、聞くための術はないということなのだろう。


本当だろうか。


確かに話し上手、話し下手に聞き上手とまではよく言うが、聞き下手とはあまり言わないのではないか。少なくとも筆者は「聞き下手」なる言葉を誰かが発するのを聞いたことがない。これが『聞術』がないことと関連するのだろうと思った。


つまり『聞術』など必要ない、というのが一般的な見解なのだ。すなわち世の中には「聞き下手」という人もいない。そう考えられているのではないか。


これを踏まえるなら、自分から口を開いて話をすることに対しては上手下手はあるが、聞くことに関しては誰でも聞くぐらいはできる。上手な人はいるだろうけれど、あえて聞くのが下手な人はいない。と、これが世間一般の解釈だと思えるようになってきた。


それは違うんじゃないの? というのが、個人的な問題意識となったわけだ。なぜなら、自分の生業を振り返ってみたときに、いかに聞くことが難しいかを、かれこれ20年は痛感してやってきたのだから。インタビュワーの仕事は、人から話を聞き出して、それを原稿にまとめることだ。コンサルタントの仕事は、経営者を中心にその企業に関わる人たちから話を聞いて、的確なアドバイスをすることだ。


いずれも話を聞くことから、仕事はスタートするし、うまく話を聞けなければ、仕事は成功しない。そうした仕事を続けてきてつくづく思うのは、人の話を聞くことの難しさ。もちろん日常会話とは違い、聞く目的が明確にあるから難易度が高くなるのは自然の理なのだろう。


では日常会話なら、何も意識せずに聞いていればそれでよいのだろうか。あるいは日常会話から少し違ったディメンジョンで話を聞く、例えばガイドさんの説明を聞くとき、講演を聴くとき、授業を聞くとき、会議で聞くとき、お客さんの話を聞くときは、どうなのか?


と考える一方で、もしかして以前はあえて『聞術』など必要なかったが、情報環境が著しく変化した今では、『聞術』を考える必要があるのではないかと思い至った。その理由ははっきりしていて、聞けない人、聞かない人が増えているように思えてならないから。


正確に言うと「聞かなくてもよい」と思っている人なのかもしれない。実態は今のところ、よくわからない。でも聞いてない人は、確実に増えているように思う。だから、今こそ『聞術』が必要じゃないかと思った次第。


では『聞術』とはいかなるものなのか、といった流れで話をさせていただいた。今のところ結論は「離見の見」に行き着いているのだが、このテーマはもっと深める必要があると思う。もしかしたら事務所の名前をコミュニケーション研究所から聞術研究所に変えてもいいぐらいに。



昨日のI/O

In:
『帝国以後』エマニュエル・トッド
Out:
西成東大教授インタビュー原稿


昨日の稽古:富雄中学校武道場

・基本稽古
・ミット稽古
・組み手稽古