何を、どう書けば伝わるのか2
伝えることは難しい
これが鉄則。たまたま文章を書くことを生業としている。だからといって、いつも伝わる文章を書けるなどとうぬぼれてはいけない。
書いた文章でお金をいただくためには、わかりやすく書くことが絶対条件になる。ごく一部の人にしか理解できないようなテキストを書いても、お代は頂戴できないのだ。
だから、受注した仕事については、読み手を意識する。年齢、性別、職業、語彙レベル、文章に対する理解度等などを考慮して書く。とはいえ、それはピンポイントの個人じゃない。
例えば、大学進学を考えている高校1年生、文系にしようか理系をめざそうか迷っている人たち、ぐらいのグルーピングとなる。マーケティングではペルソナを徹底的に作りこめと教わるが、ライティングに際して的を絞り込みすぎると、そこからこぼれる層が多くなりすぎてしまうのではないか。
だから、仕事用の文章を書く時には、あるまとまりを読者として意識している。ところが、ふだんそんな意識で書いていると、仕事じゃないテキストを編む時に難儀する。例えばメールやFacebookのメッセージである。これは、読んでもらう相手が特定されている。相手が、どんな人なのかはわかっている。
ところが、こっちはわかっているつもりでも、実は相手のことがちっともわかっていないことが多い。
だから、書き間違える。正確に言えば「こう書けば、こんなふうに理解してもらえる」と思って書いた文章が、意図したとおりに伝わらないことがある。でも、これは読み手には何の責任もない。100%書き手の問題なのだ。
だって、特定の相手に、伝えたい思いがあるのは書き手の方なのだから。メールにしろ、メッセージにしろ、相手にとっては「いきなり」届けられるものにすぎない。突然手元に来たものを読まされる相手に対して、行間を読めとか、文脈を意識してくれなどというのは、書き手の傲慢でしかない。
誤読されることはあって当然なのだ。そこで「なぜ、そんなふうに読んでしまうの?」と相手に問う前に、そこまでの流れを自省すべきなのだ。
自分と読み手の意識の違い、感情の隔たり、それまでに蓄積されたさまざまな出来事が積もり積もって誤解されているはず。だとすればテキストをコミュニケーションのツールとして選んだ時点で、既に根本的に間違っているのかもしれない。
それでもあえて文章を選択するのなら、どれだけていねいに言葉を紡いだかを、自らに問いなおすべきなのだ。読み手に寄り添うように書けているか、きちんと読みなおすべきなのだ。
一方的に伝えたいだけの文章になっていないか。読み手が、何をどう感じるのか、そこまでを思いめぐらして言葉を綴っているのかどうか。
文章講座では「ラブレターを書くつもりで書きましょう」などと言っておきながら、実はそれこそが至難の業であることが、ようやくわかってきた。
文章だけで気持ちを伝えるのは、本当に難しい。でも、だからこそ、気持ちを上手く伝えられる「文」を綴れるようになりたいと思うのでした。
たとえ、どんな文章を書いたとしても、書かれたものには、読み手が存在するのだから。その文章を読んでくれた人が、少しでもいいから、何かに気付いたり、元気になったりするようなテキストを書く。これを今年からの目標としたい。
昨日の稽古:
ジョギング7キロ