なんで、今、モーツァルトなの?


生誕250年だそうだ。


ちなみに、こちとらも今日で生誕46年だい。自分と誕生日が同じ有名人だからってわけじゃないんだけれど、ま、ちょっとは気になる人ではあった。といっても、その楽曲を詳しく知っているとか、生き様に共感してるなんてわけじゃない。


認識としては、ベートーベンやシューベルトに比べたら、なかなかオモロい人やないの、ぐらいのもんである。好きな曲を一つ上げろ、といわれればナルシソ・イエペスがギターで奏でた『魔笛』なんて、とんちんかんな答えしかできない。


このモーツァルトさん、実は10年以上前にも一度ブームになっている。

1990年代初頭、アメリカのカリフォルニア大学、ウィスコンシン大学テキサス大学の共同研究によって驚きの実験結果が報告されました。


モーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ ニ長調K.448」を10分間学生に聞かせたところ、空間認識の能力が上がり、抽象的な思考能力が高まり、IQが上昇した・・・そんな結果が出たのだそうです!


1993年にイギリスの科学雑誌「Nature」がこの論文を掲載、一大モーツァルトブームが巻き起こりました。アメリカのある州では、公立保育園で週一回クラシックを流すことが義務付けられたとか。

http://store.yahoo.co.jp/monomania/c6aca4cece.html


ある種の音楽が脳の一部を刺激し、その結果として脳の能力が活性化される。なんてことはあり得るのかもしれない。しかし、今回のブームは頭が良くなるからではない。お題目は生誕250周年である。


ということで関連CDの売れ行きが好調で、オーストリアを訪ねるツアーの中には売り切れとなった商品もあるそうな(日経新聞1月25日)。ほんまかいなと思う。


250年といわれれば、何となくキリのいい数字のように思うけれど、それって何か本質的な意味があるかというとそんなことはまったくない。ちなみに1991年は没後200年とかで盛り上がったそうだ。
http://www.topics.or.jp/Old_news/n06012307.html


どうでもいいことだけれど、最初、この記事を読んだときには「没後」に気がつかなくって、91年が200年記念で、なんで今年が250年やねん、計算合わへんやんけ、なんて勝手に憤慨したりしていた。所詮ローカル新聞か、なんて失礼なことを思ったりして、ごめんなさい徳島新聞さん。


そんなあれこれはおいといて。


要するに『生誕・没後』○○周年はビジネスチャンスになるということだ。そのこと自体に、実は特に意味はない。プロモーションをかけるキッカケとして、そして受け手の方に「だから、〜なのね」と納得していただける切り口として使えるということ。


であれば、他にもどんどん使えると思う。と考えたとき、これ、最短のサイクルはどれぐらいの周期なら納得感をもって受け入れてもらえるのだろうかと疑問に思った。たとえば店の開店記念に使うとすればどうなるか?


一周年、オッケーだ。二周年、なんか変。三周年、いけるかも。四周年はダメだな。五周年、これはあり。以下、5年ごとの区切りなら何とか、10年区切りはまず大丈夫。そんな感じですね。


「○○周年」というのは、なぜか、人にアピールする力を持った言葉のようだ。なんでだろうとは思うけれど。とりあえずプロモーションの切り口としては使える。


ちなみに幼稚園のときの私は、かなり美声だったようで、先生から「君は誕生日はモーツァルトと同じ日だけれど、歌声はシューベルトのようね」なんてほめられたことがある。妙にうれしかったのか、40年以上たった今でも、そのときのシチュエーションや先生の顔までよく覚えているんだけれど、それって変なほめ方ですよね、今にして思えば。どうでもいいことなんだけれど。



昨日のI/O

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T社・社長インタビューメモ
三浦文夫氏・インタビュー原稿第1稿


昨日の稽古:

・腹筋、立禅、拳立て