コンサートの情報量


シューベルト交響曲3番、ブルックナー交響曲7番


生まれて初めてクラシックのコンサートを体験した。中学・高校時代の友人が所属する宝塚市交響楽団定期演奏会である。交響楽団といっても市民楽団であり、いわゆるセミプロの方たちが集まっているのだろう。友人も普通に会社勤めをしているわけで、プログラムを見る限りでは練習は、週一回ぐらいのようだ。


昨日は指揮者にマイスターを招いていて、その名を黒岩英臣さんという。クラシックファンの間では有名な方らしい。音楽の好みということでは、十代から洋楽一辺倒だった。学生時代にはジャズにはまり、年経てクラシックもピアノは少し聴くようになった。


最近は『のだめ』の影響もあり、機会があればオーケストラも一度聴いてみたいと思っていたので、友人からのお誘いは渡りに船だったわけだ。そして「いたみホール」でなかなかショッキングな経験をした。


すごく響いたのだ、音楽が。特にシューベルト交響曲第三番。演奏時間が20分程度で初心者にはちょうどよい長さだったこと、親しみやすいメロディーだったこと、こちらが最初につまり生まれて初めての生オーケストラだったことなど複合的な要因の結果だろうけれど、びんびんきた。


そして何よりおもしろかったのが、自分の変化だ。フルオーケストラを生で見て、聴く。この初体験がインプットしてくる情報量は膨大なものがあったようで、それによる刺激が次から次へといろんな思いというか考えみたいなものを頭の中に生んでいった。


これこそが川島隆太先生が言っていた『生の情報量のすごさ』なのかもしれない、とも思った。実験をしたわけじゃないから推測でしかないけれども、昨日自分が見ていた席から、自分の視野覚とできるだけ同じ状態でビデオ録画し、それをテレビで再生してみるのとでは、たぶん受ける情報量はまったく違うのではないか。その差は数百倍レベルを超えるのかもしれない。


高城剛は『アイデアは移動距離に比例する』という。これを受けて以前、無意識下で受ける情報量に刺激を受けて、いろんなアイデアが湧き上がってくるのではないかというエントリーを書いた(→ http://d.hatena.ne.jp/atutake/20070705/1183644298)。


インプットが多いほど、たぶんアウトプットにつながるようなアイデアが浮かんでくるのだとしたら、ライブのコンサートもきっとインプット多々の機会になる。そんなことを再確認する機会となった。


しかし、ああいう曲を頭の中で構想して、楽譜に書くというのは一体どんな作業なんだろう。作曲家としてはモーツァルトの天才性がよくいわれるけれど、その頭の中がどうなっていたのかなどと考えると、ものすごく興味深い。


そして、クラシックには疎いからかなり妄想チックな考えだけれど、いわゆるクラシックの偉大な作曲家といわれる人たちが、生まれ活躍した時代が比較的限定されているのはなぜだろうとか、そうした大作曲家たちに比べれば学べる環境が比較にならないほど向上しているはずの現代で、なぜ彼らに比肩するような作曲家が出てこないのだろうとか。とりあえず、そんなことを疑問に思った。


あと、バイオリンはなぜ、あの形でなけりゃいかんのだろうかとか、それにしても左利きの人が一人もおらんな、とか。ああやってみんなで曲を合わせて奏でるためには、めちゃくちゃ時間をかける必要があるんだろうなとか、それを指揮する人は大変だろうなとか(指揮者については以前、大植英二さんからお話を聴いたことがあるので、だいたいどんなことをして、何が大変なのかは少しぐらい知っているけれど)。


バイオリンの音というのは、アナログの曲じゃないかとか。たとえば、シューベルト交響曲第三番の楽譜の中の音符を一つだけ変えたら、一体全体としての印象や完成度はどれぐらい違ってくるのだろうとか。神は細部に宿るというし、自分が原稿を書く時でも助詞一文字に結構悩んだりするぐらいだから、たぶん一音変わってしまったらダメなんだろうなとか。


とりあえず生で初体験してみることは、ものすごい刺激になることがよくわかった。



昨日のI/O

In:
『日本文化における時間と空間』加藤周一
Out:
フェアリーエンジェル社インタビュー原稿


昨日の稽古:

拳立て、腹筋、スクワット