誰と食べると楽しいか?


残りあと3万2000回


仮に75歳まで生きるとした場合の、残りの食事の回数である。ちなみにこれまでの食事回数をトータルすると、約5万回。そこでだ、残された食事の機会をどう考えるか。


まだ3万回もあるのだから、とは思いたくない。それこそ一期一会である。人間はいろんな活動をするけれども、なかでも食事はもっとも大切というか、根源的な活動の一つだ。何といってもゴハン食べないと死んじゃうんだからね、人は。その大切な活動をこれからは、できるだけ誰かと一緒にやっていければいいなと思う。


これまでは、ともすれば「メシなんか、さっと食って、早く他のことをした方がいい」なんて考えてきた。車にガソリンをいれるようなものである。


確かに絶対に必要ではあるけれども、それ自体にはそれほど意味はなくて、だからさっさと済ませられるのなら、それに越したことはない。そんな考え方だ。あるいは新聞でも読みながらとか、週刊誌に目を通しながらとか。めしを食うだけに時間を使うのはもったいない、なんて思ったりもしていた。


でも、そうじゃないのかもしれないと、思うようになってきた。食事という人間にとってとても重要な行動を、誰かと一緒にすることの貴重さに気づいたとでもいえばいいのだろうか。


食事をしているときの人の表情にひかれ始めたのだ。人は、ものを食べているとき、ものすごく無防備になる。たぶんいちばん素が出やすい状態ということなのだろう。何かを食べるとき人はとても素直になるようだ。その表情がいいなあと思うのだ。


もちろんお酒が入ったりして、わいわいしゃべっているときには、いろんな話が飛び交ってそれなりにとても楽しい。その楽しさはもちろん認めるのだけれど、それよりも人がただモノを食べているだけの姿には、何かとてもホッとできるものがあるように思う。単純にいいなあと思う。


いちばんいいな、可愛いなと思うのは、自分の子を筆頭に、子どもがモノを食べている姿だ。これは間違いない。彼らは純粋に食べることに没頭しているからだろう。そこがいい。では、だからといって大人がダメかというと、そんなことはまったくない。むしろ意外な発見があるのは大人の方である。


それも別にこの人のお箸の持ち方は変だとか、食べ方がおかしいなどといった細部に目をつけてのことではない。むしろ、食べているときの表情が人それぞれでおもしろいのだ。食べものを口に含んだ最初の瞬間の表情、噛み締めるに従って味わいが口の中に広がってくるときの顔つき、そしてのみ込むときの様子。それぞれに違う。そして、それぞれ違う容貌に、なんとなくその人らしさが出ているように思う。


と考えてみれば、これまでにお付き合いをそれなりに続けることができた相手とは、たいてい一緒に食事をするのが楽しかった。和むというか心安らぐというか。逆に食事をしていても、何か妙に気を遣ったり、ぎこちなさを感じる相手とは、それっきりになることが多かったような気もする。


ともかく食事である。


といって、一緒に食事をしてくれる相手のことをいつも、ためつすがめつして眺めているわけではないので(ときどきですよ見るのは、それもチラッと一瞬しか視線は送りませんから)、ぜひお気軽にお誘いください。




昨日のI/O

In:
『私の体は頭がいい/内田樹
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フリーペーパー・レストランコピー


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