語り口、いくつお持ち?

身体(からだ)の言い分

身体(からだ)の言い分


たとえば、とても仲のよい友だちと話すとき。
たとえば、とても世話になった恩師と話すとき。
たとえば、とても恐ろしい先輩と話すとき。
たとえば、とても偉い人と初めて話すとき。
たとえば、とてもかわいい子どもたちと話すとき。
たとえば、とてもきれいな女性と話すとき。


普通は、話し方を変える。声音も、たとえほんの少しずつかもしれないけれど微妙に違わせる。そんなこと、誰かに教えられなくとも、自然にそうやってきた。いつの間にか身についていた。ですよね?


ところが、近ごろの学生は、話し方を一つしか知らないという(『身体の言い分/内田樹・池上六朗』)。そういえば、若い人と話すときどうもそのタメ口が気になるようなときがある。逆に彼らから年上の人に対する話し方をきちんとされたときには、ちょっと新鮮に思ったりするようなこともある。


内田先生が指摘されているのは、多くの学生がどうも一種類の話し方しかもっていないようであること、それが基本的なコミュニケーション能力の欠如につながっているのではないかということ。この二点である。


などといえば、誰に対しても、分け隔てなく、同じように話せるのは良いことではないのか、といった反論が出てくるかもしれない。もちろん同じように「話せる(意識的にということですね)」のは、良いことです。問題なのは、そうではなくて、誰に対しても同じように「しか話せない」ことにある。


では、なぜ話し方を一つしか持っていないことが問題なのか。少し考えてみてください。


誰に対しても同じようにしか話せない、ということはすなわち、誰の・どんな話も一つの聞き方(これは「心で」聴く聴き方とは違います)しかできない可能性が高いということです。そして誰に対しても一つの話し方しかできない、誰の話に対しても同じ聞き方しかできない、というのでは、その人のコミュニケーション能力が極めて低くなることは容易に想像できるでしょう。


なぜなら、日本語は、その会話が交わされる状況に意味が大きく依存する言葉だから。たとえ音としては同じセリフだったとしても、意味はまったく反対のことを伝えようとしているケースが多々ある。


たとえば「おまえなんか、大っきらいだ」ってセリフを思い浮かべてみればわかる。このセリフの意味は『本当に大嫌い』から『本当は大好き』まで実に幅広いニュアンスを秘めている。そして、その中のどのニュアンスが正解なのかは、その言葉がどのような状況で交わされたかによる。


好むと好まざるとに関わらず、これが日本語の特長です。ところが、こうした日本語を使いこなせない人たちが増えていると内田先生は指摘しておられる。


言葉がまともに通じないと、どうなるか。言うまでもなくとんでもないことになる。特に自分の想いを正しく理解されなかったとき、人はとてもショックを受ける。子どもが急にキレる一因は、このあたりにあるのではないかと。だから、子どもたちには言葉の語り口をたくさん持てるようにしてあげたい。本当にそう思います。


そのために効果的なのは、三森ゆりか先生のいう「視点を変える」訓練だ。同じ対象を見ても、人によって感じ方は違う。この訓練では、そうした初歩的な気づきから始めて、第一人称と第三人称の違い、さらに進んで自らが第一人称的視点と第三人称的視点を使い分けられることをめざす。


これはとてもロジカルな訓練で、コミュニケーション能力を高めるにはほかにも感性(ちょっとあいまいな言葉だけれど、他にうまい表現が見つからない)を鍛えることも必要だと思う。そして、たぶん、ここがいちばん難しい。とりあえず思いつくのは、まず親が愛情いっぱいに、いろんなコミュニケーションをとってあげること。あるいは、やはり優れた文学作品を読むこと。まずは、ここからだと思う。



昨日のI/O

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『身体の言い分/内田樹
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昨日の稽古:富雄中学校体育館

・基本稽古
・ミット稽古
  早い回し蹴りを30秒で何本蹴れるか
  強い回し蹴りを30秒で何本蹴れるか
  強い逆突きを30秒で何本突けるか
・受けの稽古
  ミットを使った前蹴りの受け
  上級者と対面しての前蹴りの受け
・組手稽古(1分×15セット)