どの格差が問題なのか


34歳以下で約200万人


フリーターの数である(平成18年度労働経済白書)。34歳人口が約2700万人だから(平成15年10月1日現在推計人口・総務省統計局)、34歳人口で単純に人口比でみると、その約7%がフリーターだということになる。


もっともフリーターの定義(内閣府厚生労働省によって微妙に違うのだけれど)によれば、たとえば内閣府は、15歳以上35歳未満の学生・主婦でない者のうち、パート・アルバイト・派遣等で働いている者及び、働く意志のある無職の者(2003年版国民生活白書より)としている。


ということは母数となる34歳以下人口から学生、主婦の数を差し引かなければならない。さらに気になるのは「働く意志のある」というワンフレーズである。わざわざこんな言葉が添えられているということは、このテキストを書いた人間の頭の中には「働く意志のない」無職者の存在が想定されているはずであり、そうした「働く意志のない」人たちはカウントしません、とわざわざ宣言しているわけだ。彼ら(白書の筆者たち)の頭の中には「働く意志のない」人たちまでをカウントしたら、とんでもない数字になっちゃうよ、なんて意識があることも推察されるわけで、おそらく実態はそうなんだろう。えらいことなのである。


さて、しつこく格差の問題を考えているわけだけれど、格差にもいろんな種類があるのだと思う。たとえば地域格差、所得格差、教育格差などなど。いずれ劣らぬ問題ではある。しかし地域格差は引っ越しで解消できる可能性がある。所得格差は努力次第である程度までアップライジングしていける望みがなくはない。


しかし教育格差だけは解消方法がなかなか見つからない。地域格差や所得格差を解消する原動力は本人の意識である。ところが教育格差があると、そもそもその本人の意識が育まれない。これが最大の問題ではないか。そうした教育格差がすでにあることをシンボリックに示しているのが、フリーター(&隠れフリーター、要するに働く意志のない人)の存在なのだと思う。


では、教育格差は何が問題なのか。


大げさにいえば、生きるとはどういうことか、をまったく考えないままに育ってしまう人たちができてしまうことだと思う。もちろん、誰もが自分の生きる意味を知っているとは思わない。というか、そんなもの(=生きる意味ですね)などは、死ぬまでわからないのだと思う。でも、生きるってことがどれだけ大変なことか、だからこそどれほど価値のあることか、などということを(ごくたまにでもいいから)考えていれば、少なくともその大変さとか、貴重さぐらいは何となくではあるけれどもわかるようになるものだ。


それはたとえば小学校にいけば1時間弱はじっと座って先生の話を聞かなければならなかったり、家に帰っても少々の時間はやりたくもない勉強をがまんしてやることを通じて育まれる感覚である。何かをがまんする、イヤでもやる。それによって、そこから解放された時間に喜びを感じる。あるいはガマンしたりイヤなことをやってみた結果、自分が少し変わっていることに驚きや快感を得たりするのである。大げさにいえば自分が成長していることを感じるわけで、これこそがそれとは自覚できないまでも生きている喜びである。


この喜びを感じさせることが教育の根本的な役割だと思う。だからがんばったりがまんしたりするのは何も勉強に限る必要はない。絵が好きなら絵を描くことに、運動が得意ならそれで。とりあえず一生懸命にやることを体で覚えればいい。それがやがては働くことの意義、あるいは長じて子どもを育てることの意義などにつながっていき、引いては生きることについての、それぞれの価値観へと漠然とではあるけれどもつながっていくはずだ。


ところが教育格差があると何が起こるのか。


がんばらない子どもが、そのままに放置されるのである。そして放置される子どもが増えていくのである。小学校から中学校ぐらいの時期に受ける教育が、その後の人生に及ぼす影響は決定的とまではいわなくとも、相当に大きい。それは、その子の将来の選択肢の幅を決める。選択肢の幅が狭くとも、それを意識せずに生きていけるような社会ならば、あるいは問題は生まれないのかもしれない。


ところが情報だけは流通している。さらに悪いのは欲望だけをかき立てる情報が多いことだ(その方がマスコミ的には受けを狙いやすいから)。本来ならさまざまな条件を満たすことで手に入れることのできるものが(だからこそそれだけ価値が高く見えたり、魅力的に見えたりするものが)、誰の前にも平等に提示されるのだ。そんなもの、誰だってほしいと思うのが当たり前だ。にも関わらず、教育格差によってそれを得るための前提条件さえ身につけていない人が増えているのだ。さらに悪いことには、教育格差は、自分がそういう条件を身に付けていないことを自覚していない人を多く産み出している。


そうした人間にとって社会は、何かとてつもない不条理を秘めた世界として提示される。彼らが社会に対して抱くのは怨嗟であり、人生に対しては刹那的な快を求める方向に走るだろう。『快』が簡単に得られないと、たちまちにして『怒』へとスイッチが切り替わる。しかも妙に情報だけが流通しているがために「センコーぶん殴ってもよ、あいつら何も手出しできねえんだぜ」なんてことだけは、しっかりインプットされてたりする。いきおい学校が教育の場として成立しなくなる。そこで教育格差が生まれる。これはおそらく拡大再生産されていく。


では教育格差を少しでも解消するためには、どうすればいいのか。イージーな解決策などあるはずがない。あるはずがないのだけれど、とりあえず大人が子どもにきちんと向き合うこと、そこから始めるしかない。まずは自分の子どもに対して、子どもの友だちに対して、子どもの回りにいる子どもたちに対して。


がんばることを教えてあげる。がんばれるように、一緒にいてあげる。がんばったら、どこが変わったのかをきちんと見て、誉めてあげる。そんなことが大切なんだと思う。では、親がそこまで子どものことをかまってやれないときは、どうするのか。たとえばフランスあたりでは次のような政策が考えられているようだ。

サルコジさんは「兵役」(service militaire) に代わる「民役」(service civique) の創設を提案している。
18歳以上30歳未満の人々を6ヶ月間公共的な目的のために働かせようというのである。
社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルも同じような公約を掲げていたから、フランスではかなり現実性の高い政策なのであろう。
つまり、街でごろごろしている若い奴らを一度「兵営」に叩き込んで、きっちりしつけをして、「世の中のしくみ」つうものをわからせてやらにゃいかん、ということである。
http://blog.tatsuru.com/archives/001913.php


こういうの、個人的には大嫌いな方向性だとは思うけれど、学校と家庭が子どものしつけ機関として崩壊しているのなら、あり得ない選択肢ではないのかもしれない。




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