履修漏れ問題と公平性


41都道府県で404校
http://www.asahi.com/special/061027/TKY200610270403.html


高校の必修科目履修漏れ問題が大騒ぎだ。この問題を巡るマスコミの論調は、ほぼ次の二つに絞られる。
1.学校は一体何をやっていたのか
2.履修漏れとなった生徒はどうなるのか(かわいそうじゃないか)


学校の非を追求するのは、マスコミが最も得意とするところだ。自らの絶対的正義が確保されている立場から、相手の欠点を非難する。こうした展開については各紙微妙にスタンスは異なるとはいえ、基本的な論調は同じである。要するに「一体、あんたたちはなにをやってるのだ。もっと、ちゃんとせえよ」と。


さらには、そうした確定的な悪者がはっきりしている状況の犠牲者への態度も明らかである。「かわいそうな犠牲者を何としても救え!」。この一点張りである。


今回のケースでも明らかに問題があるのは、履修不足になることをわかっていながら受験対策のために必修漏れを意図的に行った学校である。その背景にはいろんな理由があるのだろう。悪く捉えるなら、合格率を少しでも上げることで自校の評判を高くすることがある。これは校長の評価につながっていくのかもしれない。


あるいは学校側の親心として、それでなくとも過酷な受験戦争を戦っている生徒たちの負担を少しでも軽くしてやりたいと考えた可能性もある。不要な科目の勉強に時間を費やすより、その時間を受験科目の勉強に充てた方がいいのではないかということだ。


いずれにしても、これから必修科目を学び直すのは、生徒たちにとっては大きな負担となる。なかには今後350時間もの補習が必要となるケースもあるようで、政府もどちらかといえば「何の罪もないかわいそうな生徒を救え」といった方向で動きつつあるようだ。


しかし、ほんとうにそれでいいのだろうか。


ここで問題となるのは『公平性』ではないのか。つまり学校側の指導で必修科目を学ぶ機会を奪われた生徒がいる一方で、同じく学校側の指導で必修科目をきちんと学んできて、そのために結果的に受験勉強に割く時間を(相対的に)減らさざるを得なかった生徒もいるということだ。


いずれのケースも生徒には何の落ち度もない。また、必修時間を学ぶことによって受験勉強に充てる時間をどれだけ減らさざるを得なかったかを、数字で立証することもむずかしいだろう。しかし、こちらの学生は今のところマスコミの関心の対象とはなっていない。彼らの中には「そんな不公平が許されていいのか」と憤っている生徒もいれば、おそらくは進学校ではないが故に「どっちみちたいして関係ないじゃん」と関心のない生徒もいるだろう。いずれにしても、その声はまったく聞こえてこない。


しかし客観的に見れば、大学受験に際して明らかな不公平が生じる可能性は否定できない。何も知らずに履修漏れとされる生徒がかわいそうなことは当然である。そこに異を唱えるつもりはないけれども、彼らが結果的にやり得になってしまうことも否定できない。極端な話をするなら、彼らのなかの一人が大学に合格することで、その大学を受験した必修科目をまじめに学んできた高校生が一人、不合格になるリスクがある。


そんなリスクを考えていては、現実問題として何もできなくなるのかもしれないが、かといってこのリスクを無視してしまうと、公平性の原理が損なわれることになりはしないか。


公平性を維持するためにはどうすればいいか。


理屈で考えるなら、やはり必修科目を今からでも、きちんと時間をとって学ばせることが一番だと思う。これからの時間が受験勉強を進める上でとても重要なタイミングなっていることはわかる。けれども、必修科目をきちんと学んできた学生は、現時点ですでにその時間分のハンディキャップを背負っているとも考えられる。タイミングの問題はあるにせよ、きちんとやってきた学生とのハンデ解消のためには、補習をやるのが一番の解決策ではないのだろうか。




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