「オジサンは」話法の問題


FPNに投稿した記事に非難が殺到した


FPN経由ではてぶに付けられたコメントには、自分の筆力・思考力が足りなかったから自業自得とはいえ、かなりへこんだ。書いた記事にはてぶが付いていくのは、普通ならうれしいものだけれど、今回はまったく逆である。次はどんな厳しいコメントが付くのかと、ブックマークがふえるたびに憂鬱な気分になった。


とはいえ自分が書いた原稿に対するコメントである。どれほど厳しいことを書かれようと、それは自分が受け入れるしかない。そう思って逐一目を通していった。それを読み、再読し、あるいは記事を書いてトラックバックを送ってくれた人のエントリーなどを読んでいくうちに自分のコミュニケーション能力や思考力の欠点がわかった。へこみはしたがラッキーだったと思う。


件の記事中で私は「オジサンは・・・」という書き方をした。書いている時は深く意識していなかったけれども、後から考えればこれが一つ決定的な問題だった。どういうことか。自分をあえて「オジサン」と規定することで「オジサン」と「若者」を区別していたわけだ。


そして世代間の断絶があると続けて書いたのだが、これこそ自縄自縛である。そもそも「オジサン」「若者」軸を持ち込んだ時点で自分から断絶しているわけだ。自分には若者のことが「わかっていない」、さらに自分で突っ込むなら「わかりたくもない」という潜在意識があったのかもしれない。


記事の内容自体はケータイブログやTwitterによる短文/単文コミュニケーションを繰り返しているとコミュニケーション能力が落ちるのではないか、という懸念を書いたつもりだったが、これがTwitterやケータイブログを使っている人たちから徹底的な反発を食らった。当たり前だ。


読み手からすれば
「君たちのことはよくわからないのだけれど(=オジサンのくせに)」
「ケータイブログやTwitterばかりやっていると(=深く知らんくせに)」
「コミュニケーション能力が落ちやしませんか(=明確な根拠もないくせに)」
何を言うとんねん!


ほとんど言いがかりのようなエントリーと受けとられても仕方がない。


自分で自分のことを「オジサンは」などと言った時点で終わっていたのだ。あくまでも私は私である。もちろん47歳という年齢は厳然とした事実だし、ここまで歳を重ねる過程で経験してきたことを否定しても仕方がない。そこからである、コミュニケーションが始まるのは。オジサンではなく、一個人として書いていたら(ということはケータイブログやTwitterについてきちんと考えていたら、ということだ)、もっと違った内容になり表現になっていた可能性はあるだろう。


改めて、そんなことを思った。そして、こう考えるキッカケを作ってもらえたことには本当に感謝したい。


ブログの良いところだと思う。特にFPNのようにたくさんの人が見に来てくれるブログサイト(というのかな?)の。今回の経験がなければ、自分のコミュニケーションスキルの問題点をたぶん自覚できなかったはずだ。となるとリアルなコミュニケーションの場でもっと深刻な問題を引き起こしていた可能性がある。


はてぶでコメントを付けてくれた人、トラックバックを送ってくれた人。読んでくれた人、みなさん、ありがとうございました。




昨日のI/O

In:
『21世紀の国富論/原 丈人』
一丸智司氏インタビュー
Out:


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よろしければ、こちらも。

□InsightNow最新エントリー
 「二つの『三つの視点』」
http://www.insightnow.jp/article/373

FPN最新エントリー
 「ケータイブログの問題点」
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=2615

昨日の稽古: