祈ることは考えること


繁盛神社


そんな名前の神社を見つけた。というか、以前から何度も前を歩いているのだから、ようやく気づいたというべきか。「鰯の頭も信心から」である。せっかく前を通るのだから、そのたびに拝むことにした。いよいよ神頼みである。


宮本武蔵先生は「神を信じて恃まず」と自戒したが、武蔵先生と比べるべくもない凡人故に、信じて恃むのである。というほどのことでもないのだが、早朝、町を歩くのはとても爽やかだから「よし、ここはせっかくだから、拝んでおこう」と思ったのだ。


それが、たぶん二ヶ月ぐらい前からの話。それから、風向きが変わった。それ以前が不調だったというわけではない。それなりに安定したペースで、いろいろ仕事をいただいていたわけだが、拝み始めてペースが変わった。ありがたいことに、やたら忙しいのである。


さすが繁盛の神さまである。と、もちろん感謝している。御利益があったのだと思う。ありがたき神さまである。それにしても不思議ではないか。と、考えていて、今朝、ひらめいた。


もちろん神さまのおかげなのだ。が、現実問題として、繁盛神社の神さまが、クライアントさんに「ほれ、あいつに仕事を出してやらんかい」とか「その仕事は、あいつに回すように」とお告げを出したり、夢の中でささやいてくださっているわけではない(と思う。クライアントさんに確かめたわけではないから、もしかしたら、本当にそんなことがあったのかもしれないけれど)。


何が神さまのおかげなのか。いつも、自分の頭の中に、問題意識を持つようになったこと、である。つまり、こういうことだ。


毎朝、神さまを拝む。祈る。最初のうちは「仕事がうまくいきますように」といった漠然とした祈りが、拝み慣れてくるにつれて「○○の案件が滞りなく運びますように」とか「企画中の○○が、きちんと認めてもらえますように」とか「クライアントの○○さんの件が、成功しますように」と徐々に具体的な内容に変わってきている。


これではないのか。


すなわち、毎朝、一回、いま抱えている案件について考えているわけだ。しかも散歩の途中である。朝の極めて爽やかな空気の中である。高血圧朝型故に、一日のうちでいちばん頭がまともな状態の時である。一晩眠ってリセットされた頭に、まだ余計な情報がインプットされていない状態でもある。


そんな状態の中で「神頼みしても成功させたい」案件について、毎朝、思いを巡らす。拝んだ後は、しばらく散歩を続けるわけで、これすなわち、かのカント大先生もおっしゃったように「歩くことは考えること」である。


といって、歩いている間ずっと、神頼みした案件について思索を巡らしているわけではない。できれば、そうした方が良いのだろうけれど、こちらは凡人故に、どうしてもさまざまなよしなし事が次から次へと、まるで夏の入道雲のようにむくむくと心の中にわき上がってくる。いや、ほんとに、ろくなこと考えてないなと反省するのだが。


とはいいながらも、一日のはじめに、今やっていること、これからやろうとしていること、この先できればいいなと思っていることを、それぞれ心の中で言葉にして、神さまにお願いする効用はあるのだ。問題意識を確認して、「ちゃんと考えなアカンよ」と自分に言い聞かせる意味で。さらには頭の中のどこかを、無意識のうちにでも働かせる意味で。


というようなことを、今朝、お祈りしながら思いついた。


つけ加えるなら、お詣りを始めた頃は「○○をお願いします」と、こちらからの願い事を一方的に告げていたのが、最近は「○○のことは、ありがとうございました」と、まず感謝することから始めるようにしている。このことも、自分の気持ちの向かわせ方として、良い作用があるのではないか、と考えた。


もとより神頼みをしたら、何もかもが思い通りになる、などという話ではない。しかし「こうしたい」「このようになってほしい」と思わないことが、実現することも、まずあり得ない。祈ること、神頼みすることの効用は、自分の願いを、自分の頭に刻みつけることなのだと思った。



昨日のI/O

In:
『藤巻流 実践・巻き込み術』藤巻幸夫
Out:
S社事業報告書原稿

昨日の稽古:

骨盤ストレッチ、肩胛骨ストレッチ、懸垂