「くらい」と「以上」の間


時間にすれば、おそらく24時間


〆切を前倒しで設定できるかどうか。これがアマとプロの差になるような気がする。クライアントに提出する〆切の24時間前を、自分にとってのデッドラインとして設定する。そこからが、たぶん本番の勝負だ。


提出時間を、そのまま自分の〆切としてしまうとどうなるか。とりあえず書き上げた時点で出すことになる。もちろん、そこまでのプロセスでも手抜きなどしていない(と思いたい)。けれども、気持ちのどこかで、これ「ぐらい」がんばったから良いだろうと甘えが入り込む気がする。


これに対して、本来の提出期限のの24時間前を『自分〆切』と設定すると、状況が変わる。つまり「まあ良いか」レベルまでがんばったところから、さらに詰めることができる。その後の時間のすべてをかけることはできないにせよ、これ「以上」は無理かな、と思えるぐらいにまでは煮詰めることができる(かもしれない)。


この粘りが、質を高める。そう思う。


原稿は一晩寝かすこと。多くの先達が書き残してくださったアドバイスの意味が、ようやくわかったような気がする。「今さら何を言っているのだ」との批判は甘んじて受けるしかない。ただ、現役として仕事をいただけている間に、気づくことができてよかったと心底思う。


まだ、この先も、おそらくは何百本かの原稿を書くだけの時間は、あるはず。それなら書かせてもらう原稿に対して「一期一会」の心構えで向き合うこと。同じクライアントから、同じテーマで、同じ文字数の原稿を依頼いただくことなどあり得ない。だから、請け負った仕事に対する真摯さを、もっと突き詰めなければならない。


そのためには、仕事の復習をしたほうがいい。例えば打合せに行ったら、メモを見返して大切な点をEvernoteにでも打ち込んでおく。取材をしたら、できればその日の内にテープ起こしに手をつける。それができないのなら、やはりメモを見返して、覚えている限りのことを書き込む。可能なら、原稿のタイトル(いちばん言いたいこと)と、見出し(原稿の流れを示す言葉)を一度考える。


そして、忘れる。


改めてテープ起こしと向き合う。といった作業を繰り返していけば、今より少しでもクォリティの高い原稿を書けるようになる。などと呑気なことを言っていられるのは、今の仕事の回り具合が良いからであって、これがまた仕事が立て込んできたら、そんな悠長に構えていられないのだろうな。


このブログを書いて二日後に、一歳年下の知人の訃報が入ってきた。知人といっても、中学時代にやっていた卓球部のライバル校の人。当時の記憶はまったくない。それが2年ほど前にFacebookでつながり、二度ほどお会いした。


彼は、個人で不動産業を営んでいた。帰りが遅いのを心配した奥さんが、事務所に行ってみると、既に亡くなっていたという。心臓の病だったらしい。そんな知らせを受けると、あと何百本も原稿を書けるなんて保証はどこにもない。いま書いている原稿が、最後の一本になるかもしれない、と思うこと。これが最後の原稿になって良いのか、そう自分に問い続けながら、書かなければならない。そんな気がする。


昨日のI/O

In:
『データの見えざる手』
Out:
某原稿推敲14枚
某原稿下書き5枚

昨日の稽古:

ジョギング