自分の中でのSとMの対話


格闘家にとってもっとも大切な能力は、コミュニケーション能力ではないか。そんなことを、ふと思った。


ここでいうコミュニケーションとは、二重の意味がある。まずは戦う相手とのコミュニケーションであり、もう一つは自分の内部でのそれである。


格闘技における戦いとは何か。この問いに対しては、もちろんいろんな答があるとは思う。が、本質的には戦いは相手がいなくては成立しない。その相手とは、基本的に人である。(たしかに牛や熊と戦った格闘家もいなかったわけではないが、彼らは例外としておこう)。相手が人である限り、形としては戦いであっても、それはコミュニケーションの一種として考えることができるのではないか。


ものすごく単純化すれば、口論がしだいにエスカレートして、何とか相手を言葉で打ち負かしたいと思う。が、どうにもならない。そこでついつい手が出てしまう。こういった形で喧嘩が始まることは多々あるだろう。この場合の口論とはいうまでもなくコミュニケーションの一種である。もとよりコミュニケーションは相互作用を広くさす用語であり、それはなにも友好的なものだけに限られるわけではない。


口論が言葉をツールとして相手とのやり取りが行われるのに対して、格闘技ではさまざまな技をツールとして相手とのやり取りが行われる。具体的に交わされるのは『技とそれがもたらす痛み』である。


いきなり話は飛ぶのだが、極真会館・松井館長のビデオを持っている。これまでにもう二百回ぐらい見ているのだが、何度見ても美しい。何が美しいのか。松井館長と数見肇のスパーリング、あるいは松井館長とフィリオのスパーリングである。


数見肇とのスパーリングは、合宿の際に行われたもので、どちらかといえば逆光気味に撮影されているために、映像の質はあまりよくない。が、見ていてほれぼれする。このスパーリングは見事にコミュニケーションだと思う。技を交わし合うことで、肉体同士がダイレクトに反応し合い、それを二人とも楽しんでいる(ようにしか思えない)。


素手である。はっきりとは見えないが、足のサポーターも付けていないようだ。それでいて、一発一発の突き蹴りが手を抜いたものかといえば、決してそんなぬるいことはない。ビシッとかバシッと小気味よい音を立てて技が受け返されている。致命的な痛みはないにせよ、お互いにある程度の痛みを感じているはずだ。しかし、それが楽しそうに見える。


フィリオとの組手は、数見との場合に比べて20%ぐらい力が増しているように見える。それでもお互い、楽しそうだ。生身の体でどついたり、蹴り合ったりするのだから、痛くないわけがない。が、その痛みを楽しめるかどうか。ここに格闘家の才が問われるように思う。


この才覚は通常の稽古のときにも求められる。たとえば一人で稽古するとき。筋トレにしろ、基本稽古にしろ、あるいはジョギングなどの持久力を付ける稽古にしろ、これは完全に孤独な世界だ。たとえ誰かと一緒にやっていたとしても、結局は自分との戦いである。その稽古がどれだけ実のあるものになるかは、サボりたくなる気持ち、楽したくなる気持ちとどれだけ戦えるかにかかっている。


自分を追い込めば追い込むほど、稽古の質は高くなる。しかし「自分を追い込む」などというのは、言葉で言うほど簡単なことではない。すこし苦しくなると、ちょっと手を抜きたくなるのが人間としてごく普通の反応だと思う。そこで、あとどれだけがんばることができるか。ここに格闘家としての資質が問われるのだろう。


ここで最初のテーマに戻るのだが、では、優れた格闘家とは自分の中にSすなわちサディスティックな資質と、Mつまりマゾヒスティックな資質を両立させている人間のことではないかと思うわけだ。


苦しい稽古を自分に強いる。そのことに何らかの喜びを感じる。これは変形とはいえサディズムではないのか。と同時に自分の精神(というか脳の命令)によって、自分の肉体に課せられた苦しみや痛みに耐える。耐えることにやはり何らかの喜びを見出す。これまた変種とはいえマゾヒズムの一種である。この両者が自分の中でせめぎ合い絶妙なバランスで成立している人が、優れた格闘家。そんな仮説を立ててみた。


この仮説に基づいて、自分が知っている人たちを思い浮かべてみるに、なかなかに当たっていそうである。


では、自分はどうなのか。これは難しい質問である。自分にとっていちばんわからないのが自分である。そう簡単には答えが出ないと思う。とりあえずSとMが同居していることは間違いなさそうだけれど・・・。



昨日のI/O

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『ことわざ・四字熟語に強くなる』
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 カーツ散歩