顔面が空手を変える


先週の日曜日、審査があった。


緑帯の審査では五人組み手がある。今回審査を受けたのは普段から顔面ありルールで稽古している道場生だったので、三人は顔面あり、二人はいつものフルコンルールで組み手をすることになった。審査を受けたのはオーストラリアから留学に来ている若者で、恵まれた体格をしている。力も強い。


その体格を活かした顔面ありの組み手となると、相手によってはパンチが頭の上から降ってくるような感じになる。対戦者もいつも顔面ありで稽古しているとはいえ、普段とは力の入り具合が違う。つまり普通の稽古の時に顔面ありで全力を出していては、たぶん危険すぎる。だから「いつもは軽くやっているので、フルコンルールよりもケガは少ないですよ」と相手をする黒帯の先輩は組み手前にいっていた。


が審査となるとそうはいかない。まったく真剣モードにスイッチが切り替わる。かの青い目のサムライ君は上背を活かして、飛び上がってのパンチを顔面(というか頭)めがけてたたき落としてくる感じ。もし自分が相手をしていたら、相当に無様な姿をさらけ出すことになるだろうなと思いながら見ていた。さすがに黒帯の先輩はうまくさばきながら、時折パンチを顔面にヒットさせているが、それでもおおいかぶさるような相手の攻めにはときに難儀している。


ところが、そのサムライ君もフルコンルールでは、まったく戦い方が違ってしまうのだ。もちろん気合いは充分だし、前へ出る強い気持ちも変わらないのだが、とにかく勝手が違うといったところか。たぶん彼にとって厄介なのは、ローキックがびしびし入る間合いになってしまうこと、ローで動きを押さえられるからそこからさらに中に入られて膝蹴りをもらったり、ボディに突きをもらったりしてしまう。中へ入られてしまうと手足の長さが逆にハンディになるのだろう。


ことほど左様にルールによって間合いがまったく変わってしまい、それは空手の質をも根底から変えてしまう。今さら当たり前のことだけれど、これは改めて考えさせられる機会になった。


つまり以前から考えていることとも絡んでくるのだが、自分が生涯空手を続けていくとすれば何をめざすのか、そのためにはどんな稽古をするのかといった問題である。血圧問題や年齢のことを考えれば、これから試合に出て勝つ空手をめざすことはあまり現実的な選択肢とは思えない。実際問題、黒帯はおろか茶帯をめざすことさえ難しいかもしれない。じゃあやめてしまうのかといえば、それはない。顔面蹴られるのは恐いけれど、組手をやるのは楽しい。やめられない。


仮に試合に出ないことを前提とした空手に、どんな目標設定の仕方があるのか。試合に出ないということは、試合ルールに縛られることもないということだ。だから、とりあえずは手による顔面攻撃なしという前提を外した方が、少なくとも護身術を身につける上では役に立つのかもしれない。その話でいくとじゃあ金的蹴りはどうなのかとか、あるいは前からの足刀膝折なんかはどうなんだとエスカレートしていくことになる。もっと突っ込むなら、塾長がいろいろ言っておられる危ない技を覚えると護身には役立つとは思うのだけれど、そんなのどうやって稽古するんだってことにもなる。


とりあえずルールが空手を大きく変えることは、はっきりとわかった。わかったのだから、自分がやりたい空手(そんなものが見つかればの話だけれど)は、どんなルールが一番近いのか。そのルールでの稽古をするとしたら、どんなやり方がいいのかを考えなければならないのかもしれない。


もう一つの考え方としては、もちろん長い目で見て何らかの上達はめざすとしても、とりあえずそれはおいといて稽古の時間を非日常の体験としてやり抜く、という選択肢もある。試合に出る出ないに関わらず、自分の限界に挑戦する。できるできないを考えず、指導してもらう通りのことをやってみる。これも一案だと思う。ただ、この場合は、どうしても体力その他と相談しながらやることになるわけで、そうなると結局は自分に甘くなりがちというか、限界がわからないというかそういった問題が残るだろう。


なかなか難しい問題だ。でも、人の審査を見ていると、自分もやりたくなるよなあ。四の五の言わずに基本と移動、型とミットをみっちり頑張ればいいのか、などと思ったりもした。



昨日のI/O

In:
『孤高の山桜/後藤一俊』
Out:
日野佳恵子氏インタビューメモ

昨日の稽古: