知命


子曰、吾十有五而志於学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。


まだ五十には少し間があるし、天命などというたいそうなものが自分に与えられることはないかもしれないと思うのだが、とりあえず「これは」と思う文章と出会ってしまった。内田樹先生といまの自分を比べるなど、まったくもって恐れ多いことだとは百も承知している。それでも『下流志向』の巻末に書かれていた次の文章に衝撃を受けた。

余生は武道の道場で地域の子どもたちを教えることで過ごそうと思っています。江戸時代の地方の藩にあった小さな町道場のようなものを建てて、そこで武道をやりたいという子どもたちを教える。武道で身を立てたいという若者がいたら、なんとか自立できるように世話を焼いてあげる。どうも家にいづらいという子どもがいたら道場に泊めて、ご飯を食べさせて、代わりに掃除や家事の手伝いをさせて書生として使う。学問がしたいという子どもがいたら、原書購読をする。哲学も文学も教える。週末になると仲間を集めて宴会をして、麻雀をやる。そういう開かれたアジールのような、寺子屋のような、道場のような、コミュニティの拠点を作りたいんです。
(『下流志向』内田樹講談社、2007年、229〜230ページ)


これは衝撃である。ああ、自分のやりたいことは、これだったのではないかと。なかなか形にならなかった自分の思いが、みごとなまでに簡潔に言葉として表現されている。


もう七年ぐらい前の話になるが、そもそも寺子屋を始めた動機は、とにかく子どもたちと接していたいという思いからだった。自分が子どもに恵まれた幸せを、何かの形で還元したい。自分に何ができるのかと考えたときに浮かんだのが、とりあえず自分のまわりにいる子どもたちに、何かをしてあげることだった。具体的に子どもたちにしてあげられそうなことはといえば、まずは子どもと一緒に遊ぶことだ。遊びながら、少しずつで良いから人と話すこと、考えることを教えてあげられれば良いなと思ってやってきた。


その過程で縁あって、空手の道に導いてもらい、そこでも子どもたちと接する機会を授けてもらった。だから内田先生と同じことをできる、などと大それたことは考えているわけではもちろんない。でも、今は無理だとしても内田先生より一つだけ私にもアドバンテージがある。可能性がないこともない。つまり私の方が十歳若い。ということは、あと十年は自分の力をつけるための時間が残されているということだ。


先生がいつから『寺子屋』を始められるのかはわからない。けれども、先生がスタートされた時から十年かけて少しでも追い付ければ良い。正確には、自分が明日からすぐにでも追い付くための勉強を始めれば、十年以上学ぶ時間はある。もとより十年かければ、教養にせよ武道にせよ、内田先生に追い付けるなどと大それたことは思っていない。それでも少しは今の差を縮めることはできるだろう。


実際に自分が何人の子どもを相手にできるかは、これから自分のキャパをどれだけ広げていけるかにかかっている。とりあえずは自分の今後の方向性が一つ、はっきりしたことがうれしい。今でもいろんなことを自分なりに学んではいるつもりだけれど、そうした学びをやがて誰かに伝えていくのだと思えば、学び方も変わってくるだろう。それにより学びの深さも違ってくると思う。


たとえばコミュニケーションや考えることについて。今まで何となく読んできた本を、子どもたちに教えるためにはという軸でもう一度読み直していけば、違った形で理解が深まるのではないだろうか。読み書きや算数の、いま寺子屋に来てくれている子どもたちへの教え方も変わるかもしれない。


空手の学び方もたぶん変わる。何となく自分がうまくなるためにとか、黒帯をとるためにといった接し方しか今はできていないのが、武道として子どもたちにきちんと伝えるためには、といった視点でみるようになれば、まず自分の学び方が変わらざるを得ないと思う。もっといろいろ研究するべきだと思う。


ちょうど47歳になって今日で10日め、五十歳にはまだ少し間があるけれども、この一文との出会いこそを自分にとっての『知命』だと思うことにしたい。



昨日のI/O

In:
下流志向/内田樹
『営業の科学/萩原張広』
Out:
某社顧客不満足度調査設計書
某社営業データ集計フォーマット


昨日の稽古:

・レッシュ式腹筋/腕立て