じい・ばあの役目


親との同居、親元近くを希望:6割強


団塊ジュニア世代を対象とした「理想の住まい」親子間の距離調査の結果である(日経産業新聞5月1日)。こうした回答が出てくる背景には、女性の意識変化があるようだ。

内閣府の調べでは2003年を境に、子供ができても働き続けたい女性が、子供ができたら一度仕事を辞め、大きくなったら再び働きたいとする女性を上回るようになった。
日経産業新聞5月1日・1面)


子育てを親に頼りたい女性が増えている。これはいいことだと思う。


自分はおばあちゃん子である。両親が共働きをしていたので、昼間はおばあちゃんの世話になった。よく怒られたt。子ども時代(中学に入るまでですね)を過ごしたのは公務員宿舎である。団地であるが、何となくコミュニティ的な雰囲気も残っていた。


たとえば公園などで遊んでいて時に悪さをすると、たちまち近所のおっちゃん、おばちゃんから叱られる。おじいさん、おばあさんもいて、それはなかなかに恐い存在であった。


あるいは盆と正月には田舎で親戚一同が集まるのだが、そこでも年寄りは一種近寄り難い雰囲気を醸し出していた。もっとも、実際にはお年寄りの方では孫が可愛くないわけはなかったはずだが、だからといって孫に媚を売るようなことは一切なかったと記憶する。


子どものまわりには、じいちゃん、ばあちゃんを含めていろんな大人がいた方がいいと思う。理由は三つある。


まず第一には価値観の多様性を子どもの頃から意識できるようになること。いろんな大人がいれば、その人たちは当然、いろんな価値観を持っているはずである。子どもにはよく訳の分からないことで怒ったりするおっちゃんもなかにはいたりするだろう。それでいいのである。世の中にはいろんな人がいるなあということを実感できること、自分には理解できない理由で腹を立てる大人もいるのだという学びが、後々役に立つ。


二つめには、そうした大人とも共存しなければならないことで、不快への耐性が養われる。人の間で生きていく限りは、必ず不快なことが起こる。そうした不快時に耐える力がないと、すぐに切れてしまうことになる。だから、子どもの間に「世の中には自分の思うがままにならないことがある」ことを学び、そうした状況へのある程度の耐性を養っておくことは、とても大切だ。


三つめには、自分と話の合わない相手とも何らかの形でコミュニケーションを取る必要性を学べることがある。じいちゃん、ばあちゃんとは当然、知識も経験も何もかもが違う。そういう相手と一緒に過ごすわけだから、まず最初に向こうが何を言っているのかを理解しなければならない。また子どもたちが知っていて、年寄りにはわからないことだってたくさんあるだろう。であれば、自分の言いたいことを相手が理解できるように伝える術も知らず知らずのうちに身につけることができる。


ここで現状を振りかえってみれば、今の子どもたちは、コミュニケーションを、すべて自分の思惑通りに進めるものと誤解している恐れが多大にある。


つまり彼らには他者と接することなく、自分を「快」状態のみに置くことが可能な環境が用意されている。幼い頃から、とりあえずは自分と同い年の子どもたちとだけ遊ぶ傾向が強い。年上の子どもが混ざっていれば、当然、理不尽な扱いを受けることもあるはずだが、今はいろんな歳の子どもが混ざって遊ぶ環境は滅多にない。だから遊んでいてもあまりに不快にならない。


長じてゲームで遊ぶようになると、これはまったくの「快」状態オンリーになる。だって自分にとって不愉快な状況となれば、ゲームは簡単にリセットしてしまえばよいわけだ。


言うまでもないことだが、このようにつねに「快」状態だけでコミュニケーションしてきた人間は、いとも簡単にコミュニケーション不全に陥るだろう。生の人間との交流においては、不快に耐えることで相手を理解し、その結果がお互いの「快」状態へと昇華されて行く。こうしたプロセスを経てコミュニケーション能力は涵養されていく。


だから、とりあえずはじいちゃん、ばあちゃんと同居し、子どもに彼らとコミュニケーションする機会を与えることはとっても良いことだと思う。以前から何回も書いているけれども、これからリタイヤされる団塊の方々にはぜひともご自分の孫以外の地域の子どもにも積極的に、それもすこし厳しく関わっていただきたいと思う。



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