老いとの闘い
歳を取ると愕然とすることがある
たとえば、楽勝と思った腕立て伏せの回数をこなせなかったとき。あるいはジャンピング腕立てでどうがんばってみても、前へ進めなくなったとき。「なんでなん? 一体どうなったん?」と自分にがっくりくる。
空手を始めたのが、ちょうど40歳のときだ。といってもいきなり運動を始めたわけではなく、それまでにもちょくちょく身体を動かしてはいた。たとえば週に一、二回は軽くジョギングしたり、腕立て・腹筋にちょっとした筋トレ、あるいはスイミングなどなど。だから40にしては体力のある方なんだからと自分に言い聞かせてがんばって稽古にも必死で付いていった。
ちょうどいいタイミングで肩や腕を大きく動かす空手を始めたおかげだろう、いわゆる四十肩に苦しむこともなかった。一日中座ってパソコンをぱたぱた打っていると、とても肩が凝る。そんなときには基本の突きを繰り返すことで凝り固まった肩の筋肉がほぐれていくのを実感した。
ところが数年後、なぜか腕立て伏せができなくなった。回数を続けているうちに腕がだるくなって、もうどうにも上がらないといった感じではなく、そもそも最初から力が入らないのだ。何が何だかである。これはもしかして最近、腕立て伏せをサボっていたからかと家でトライしてみてもダメ。一回もできない。
今から思えば、これが四十肩だったのかもしれない。だから何も手当をしないままに、症状はいつの間にか消えた。次は膝である。前にも書いたけれど、審査を受けるんだ→まずは下半身をしっかりさせるんだ→それにはスクワットあるのみパターンで、膝蓋腱を痛めること三度。冷静に考えれば、鍛え方がまずかったということになるのだろう。
そして走ることを止められた。とりあえず血圧が正常値に戻るまでは走らない方がいいですねとのドクターストップである。ああ、なるほど人はこうやって歳を取っていくのだと諦観した。走らないとスタミナがもたない。比較的自信のあった持久力もだんだんと衰えていった。
その間に何とか茶帯まではいただくことができた。そして、いまもう一歩上を目指しているのだけれど、ここでどうやら老いと正面切って向き合わなければならないことに気がついた。気持ちは若いつもりでも体が付いていかない。
道場ではよく「体の限界は、心の限界のずっと先にある」と教えてもらっている。その言葉はよくわかる。「もうアカン」と思ってからが稽古なのだ。そこでもうほんの一歩だけでもがんばれるかどうかが、大きな分かれ道になる。先に自分の心に負けてしまっては進歩はない。
なんだけれど、もしかしたら歳を取ると体の限界が低くなるのかもしれないとも思うようになった。正確にいうと体の限界が低くなるのに連れて、心の限界もさらに低くなるというべきかもしれない。つまり「もうあかんわ、できひんわ」と思ってしまうレベルが、自分の中で下がってしまったような気がするのだ。そして、だからこそというわけでもないのだが、そういう稽古をした後にはものすごく体も疲れ切っている。
これを以て「歳をとった」ということなのかもしれない。もちろん、そんなことで納得したくはないし、まだまだするつもりもない。ないのだけれど、先日ちょっと体が深刻な状態になったのをキッカケに、考えを改める必要があるのかもしれないとも思うようになった。
決して認めたくないけれども心臓も肺も、筋肉も40の時からは確実に衰えているのだろう。あちこちが痛くなったり、できていたことができなくなったり、あるいは急に苦しくなったりするのは、その証である。まだまだ若いつもりはいいが、そうした体の変化から目を背けてもいけないのだ。自分の老いを認めた上で、それと闘い、ある意味では和し、そして共存するとでもいえばいいか。
一方で「老い」を弱音を吐く言い訳とせず、心は鍛える。難しいレベルにはいってきたのだなと思う。と同時に、これからが本当の稽古になるんじゃないかとも思う。
昨日のI/O
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某ソフト開発物語
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昨日の稽古:
・レッシュ式腹筋