朝青龍のガッツポーズと残心


朝青龍のガッツポーズが取り沙汰されている


いわく品格がない。国技を辱める行為ではないか。行き過ぎたパフォーマンスだ。横綱審議委員会の方々のコメントである。中には「別にいいじゃん」みたいなことをおっしゃる委員もいるようだけれど。


じゃ、お前はどうなの? って問われたら、今の相撲でなんでガッツポーズしちゃあかんの? と逆に問い返したい。相撲が国技かどうかはさておく。決して否定するつもりはない。けれども、横綱大関が外国人ばかりで「国技」というのは、ちょっと違うんじゃないのかぐらいには思う。


それより何より、とりあえずいまテレビでやっている大相撲は一種の見せ物ではないのか。見せ物という言い方が違うなら、少なくとも相撲道ではないといってもいいだろう。といってもちろん日本相撲協会いちゃもんをつけるつもりもない。けれど協会のホームページに書かれている文章には少し違和感を覚えるのは確かだ。

財団法人日本相撲協会は、公益法人として自らの寄附行為とその細則により運営されています。
我が国固有の国技である相撲道を研究し、相撲の技術を練磨、その指導普及を図るとともに、これに必要な施設を運営しながら、相撲道の維持発展と国民の心身の向上に寄与することを目的としています。なお、協会の運営は理事会の決議により決定いたします。
http://www.sumo.or.jp/kyokai/soshiki/index.html


相撲道とは、なんぞや。


ウィキペディアによれば、相撲は日本古来の神事や祭りであり、同時に武芸でもあり武道でもある。武道的な側面を示す有名な記事が『日本書紀』にある。そこには野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」での戦いがあったこと、宿禰が蹴速を蹴り技で脇骨と腰を折って殺したことが記されている。


これなら武道だと納得もする。そもそも武道とは、行き着くところは生死を賭けた戦いである。その戦いの中で、いかに生き残るかを追求する中で、いろいろな技が生まれた。個人的には今のところ、そう解釈している。


大相撲は武道ではなく、あくまでも興行である。であるならば、さまざまなバッシングに耐え、引退の恐怖に負けずにがんばりぬき、みごとに復活優勝を遂げた朝青龍が、ガッツポーズぐらいして何がいかんのか。とまあ、こう思うわけだ。


興行として考えるなら、初場所なんてこれ以上ないぐらいのドラマだったではないか。


見るものをヒヤヒヤさせるような序盤戦の朝青龍の戦いぶりが、土俵を重ねるごとに相撲勘を取り戻して全勝街道を突っ走る。かたや初戦から盤石に見えた白鵬の方が逆に、思わぬところで取りこぼしてしまう。強さを取り戻しつつある憎まれ役横綱を、正統派が一敗差で追いかけての千秋楽、本割りでは白鵬が勝つ。ここで一つ、正義を愛する人たちはカタルシスを迎える。


ところが決定戦では情景が一転する。朝青龍白鵬を冷静に体格などで見比べるなら、圧倒的に朝青龍の方が不利である。判官びいきの日本人としては、朝青龍を応援したくなる人もいただろう。悪役ではあるが本割りで負けたことにより、そうした同情も集め始めた朝青龍が今度は勝つ。朝青龍も、そうした空気の変化をわかっていたのではないか。


劇的ではあるが、ある種予定調和的ともいえる勝利。最高のクライマックスである。ガッツポーズも出ようというものだ。そもそも武道じゃないのだから。


厳密に武道として考えれば、ガッツポーズなどあり得ないのだ。なぜならガッツポーズをとること、すなわち残心を自ら放棄することになるから。逆にいえば、残心こそが武道の武道たるゆえんといってもいい。塾長が口を酸っぱくしておっしゃっているのも「残心」の大切さである。


生き延びることが武道の本質なのだから、残心をとらない時点でアウトである。どこから反撃が来るかわからないわけで、それに備えないことイコール生き残れないことを意味する。


だから品格がどうとか、国技のパフォーマンスとしてふわさしくないとかいうのは、そもそも論点が違うのである。相撲道、武道としての相撲を名乗るのなら、残心していない時点でアウトというだけの極めて単純な話なのだ。


でも、大相撲は少なくとも武道ではないのだから、残心などとらなくても何も問題はない。というぐらいに、武道すなわち残心なのだ。という思いがこのところ少しだけ深まり、残心的佇まいというのが一つの生き方になる、などと考えるようになってきている。げに武道は生き方、ということなのだろう。


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