拳を交わす意味
それは一種、異様な光景だった。
組手をしながら泣く。とめどなく涙があふれてとまらない。少し失礼な表現だが、およそ涙など似つかわしくないようないかつい顔をした黒帯の猛者たちがである。
昨日、自分の師であり、空研塾・奈良支部を引っ張ってこられた中西支部長を送る三十人組手が行われた。長年の過酷な稽古がたたって、支部長の身体は決して万全の状態とはいえない。それでも、最後に一人でも多くの仲間と組み手をやりたい。そんな思いに動かされて、奈良の道場生ほぼ全員が集まり、さらにはこれまで支部長と交流のあった空手家も来られた。
そして三十人組手が始まった。
支部長がなぜ、こんなきつい組手を最後のあいさつ代わりにされたのかは、すぐにわかった。これは組手ではないのだ。仲間の突きや蹴りを受けて自分の身体に刻み込み、さらには自分の突き蹴りを返すことで、その思いを相手に伝える。まさに支部長なりの別れのあいさつなのだ。
そう思ったとき、不覚にも泣けてしまった。
あいさつとはいえ、実際にはきびしい突きを受け、力の限りの蹴りを叩き込まれることになる。それも三十人分。時が経つにつれて、支部長の動きは明らかに弱っていかれた。しかし、心は折れなかった。だから、たとえどんなに力任せのローキックであっても、そのほとんどをかわすことなく自分の身体で受けていた。突きや蹴りを身体で受けてはいけない、できる限りさばき、かわすことが大切だと常日頃教えてくれていたにもかかわらず。
自分も相手をさせていただいた。自分ごときが手加減などと考えるのは、それこそ不敬である。だから、少しでも私のことを覚えていてくださいと願いながら、蹴らせていただいた。これが今の私の力ですとばかりに突かせてもらった。それをすべて支部長は自らの体で、心で受け止めてくれた。こんな別れのあいさつがあるのだと泣きそうになる自分と必死に戦いながらの一分半が過ぎた。
礼を終え、最後に握手したときの手の大きさ、温もり、あたたかさに満ちたまなざしは、自分にとって一生の宝物である。自分に負けそうになるとき、弱音を吐きそうになるときは、今日の支部長の姿を思い出すことにします。それでもくじけそうになるときには、握手していただいたときの支部長の目を支えにさせていただきます。
ありがとうございました。押忍。
昨日のI/O
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