最初で最後の授業参観
昨日、授業参観があった
中学校で授業参観。ちょっと妙な感じもある。少なくとも自分の中学校時代、親が参観に来た記憶はない。そもそも参観日などなかったはずだし、仮にあったとしてもわざわざ奈良まで来てくれたりはしなかっただろう。
が、最近は保護者からの要望が強いらしい。息子の通う学校でも去年ぐらいから(はっきりしたことは知らないのです、すみません)6年間で一度だけ、授業風景を見せてくれることになったようだ。つまり、これが最初で最後の授業参観となる。であるなら、やはりこれは見逃せないではないか。
教室に入ってみると、さすがに1クラス45名は多いなあと感じる。まだ、みんな中1だからそれほど圧迫感はないものの、これが高3ぐらいともなれば、さぞや暑苦しいことだろうと余計な心配をしたりする。ただ教室には冷房が入っている。これは自分が通っていた頃、つまり今から37年前との大きな違いだ。だから、それなりに涼しい。
もう一つ、決定的な違いに授業を見ていて気がついた。みんなのノートの取り方である。先生が黒板に板書する。みんなが一斉に同じようにノートにペンを走らせる。先生が重要箇所に赤線を引く。みんなが同じように赤ペンに持ち替えて、線を引く。
みんな、一緒じゃん。
逆に黒板には書きこそしないものの、結構おもしろいことを話してるときもある。ところが、そんなときにせっせとノートを書いている子は一人もいない(ように見えた)。聞くところによると、ひたすら板書を写し、先生が赤線を引いたら直ちに同じように赤色で線を引くというのは、塾でたたき込まれるノートテイキング法なのだという。
なるほど。おそらく、息子のクラス全員が、そうした塾の出身者なのだろう。それにしても、あまりにみんなの行動が画一化してはいないか。不思議に思ったから、家で息子に尋ねてみた。「お前の学校では、ノートの取り方に何かルールでもあるのか。先生が、ノートはこういうふうに書くんだと教えてくれたのか」と。
そんなことはないそうだ。そして、息子は、自分なりにいろいろ書き方を工夫しているらしい。
さて、37年前のおぼろげな記憶をたどってみると、自分が通っていた中学校では、ノートの取り方に3派があったように思う。まずは、ごく普通派である。黒板に書かれた通りに、きっちりと、それだけを書き写す。割ときれいなノートの書き方をする生徒たちの一派で、どちらかといえば、自分はこのグループに属していた。
もう一派が、先生が話すことをすべて書き取る派、である。可能な限り一言一句漏らすことなく、書き取る。当然、書かれた文字は当人にしか読めないような走り書きとなる。彼らは、私の倍ぐらいの早さでノートを消費していった。そして、このグループに属する人たちは総じて成績がよく、おお、今振り返ってみて思えば、みんなストレートで志望大学に入っているではないか。ふ〜む。
三つめのグループは、超越派とでも名付ければ良いか。ノートを出してはいるものの、鉛筆は持たない。あるいはノートさえ出さずに、教科書に何やらごにょごにょ書き込んでいる奴もいる。そうかと思えば、じっと話を聞いていて、ごくたまにだけ何かをノートに書き込む。できる奴は超・できたけれど、まったく反対という人もいた。ユニークな人たちである。
ようやく最近になってノートの取り方をきちんと意識するようになった身としては、もう少し、面白がれるノートテイキングをしても良いのにと思った。すなわち、板書はきちんと書き写す。だが、その横に「これはおもろい!」と思ったポイントや、「それ、何でなん?」と疑問に感じた点をメモする。
一回の授業で何か一つ、この自分にとっての「発見」「疑問」メモを書き残すよう心がけていれば、授業に向かうスタンスもずいぶんと変わるんじゃないか。すなわち、ただ教えてもらったことを聞くという受動的なものから、その授業の中で何か一点、自分が関心を持てるところを探してやろうという能動的なスタンスに。
そのために使い勝手の良いのが「コーネル大学式」ノートなんだなと再確認した次第で、家に帰って早速息子にそんな話をした。ら、彼は「僕はちゃんと考えてノートを書いてるで」といいつつ「でも、そういう(お父さんの言うような)書き方してもええかもな」と少しだけ同意してくれたりもした。
それにしても、中一の授業を聴いて「なぜ、樹木には針葉樹と広葉樹があるんだ」と、とっても不思議に思った。先生の話でいちばんおもしろかったのも、この点。針葉樹の方が古くて、進化の過程で広葉樹ができた(だか、広葉樹に進化しただったか言い方は忘れたけれど)。木だって戦略的に、最適な生存方法を選んで来たのだという話は、結構印象に残った。
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