知命を迎えて思うこと


50歳になって1週間


当然のことながら、誕生日を迎えたからといって、何かが劇的に変わったりはしない。相変わらず、どたばたの毎日を過ごしている。本来なら「五十にして天命を知る」べきなのだろうが、そんなことは兆しすらない。


そもそも孔子さんが生きていた時代に比べれば、たいていの人がだいたい20年分ぐらいは幼稚化しているという話がある。だから、頭の中の成熟度でいえば、2500年ほど前の人を基準に考えて、まだ30代並みなのかもしれない。にしては、血気だけは盛んどころかしおれ果てているような気もするけれど。


ともかく50歳になってしまった。


その朝、とりあえず自分の体に感謝した。自分を生んでくれた両親と、自分と一緒に暮らしてくれている家族に感謝した。ともかく健康体(とは正確にはいえないのかもしれないけれど)でいられるのは、みんなのおかげだ。


ちょうどその日は歯医者さんに行くことになっていた。さすがに少しばかり歯は痛んできているようだが、未だにすべての歯が健在である。正確には上の親知らずは二本ともなくなってしまったが、下の歯は親知らずも含めてすべて残っている。虫歯も、今のところない。歯槽膿漏もない。歯茎も歳の割にはしっかりしている方、らしい。


やや欠けている部分に詰め物をしてもらい、歯石をチュィ〜ンとしてもらって(これが結構痛かったけれど、というか正確には恐かったけれど)まあ良いでしょうと言ってもらった。


ほかには血圧がやや高かったり(薬をのんでいれば正常値)、尿酸値が高かったり(薬をのんでいれば大丈夫)はするが、おおむね健康といっていい。ときどき走ったりしても、息が切れることはないし、走り終えた後に膝やすねが痛むこともない。空手の稽古をした後などは、肩こりが見事にほぐれていたりするぐらいで、やはりどこかが痛んだりすることもない。


誠にもってありがたいことである。


とはいえ、この先、いつまで同じようにしていられるかとなると、そこはいささかの不安を感じる。頭はまだまだしっかりしているつもりでも、こればかりは、自分のぼけ具合を正確に自覚することはできないはずだ。なので、ぼけないことをひたすら祈るしかない。


あるいは、肝臓あたりが「もう、くたびれた。やってられんぜ」とある日突然、さじを投げることも考えられる。できるだけ毎週、きちんとお酒を抜く日を作らねばと心を改め努力するしかない。


そうやってこれから先は、歳が、すなわち時間が奪い取っていくはずのものを、何とか奪われるスピードを少しでも遅くしたり、あるいは欠けてしまった部分を他の何かで補ったりして取り繕いながらやっていくことになるのだろう。そうした決意を固めることが、自分にとっては、まず天命へ至るまでの第一歩だと思うことにした。


そんなことを考えていると、ちゃんと天啓が下りてくるようで、日経の朝刊に連載されていた細川元首相の記事に「これを参考にすべし」と語りかけてくるような文章があった。政界を引退し、隠棲していた細川氏の「日々の心得」。すべてを真似することはできないが、

一、即起
一、作務
一、静坐

の三つはすぐにやろうと思いついた。


別に難しい話でも何でもなくて、朝は目が覚めたら布団の中でぐだぐだしていないでさっと起きる、起きたらやるべきことをさっさと、かつきちんとやる、夜眠る前には静かに座って一日あったことを内省する。そんなことさえやってなかったの? といわれると答えに詰まってしまうのだけれど、今気づいたのだから、今からでもやった方がいいかなと思い直して続けている。


仕事でも、まだまだやりたいことがある。というか、ようやく仕事の中で、自分はこんなことをしたいのだと言うことが見えてきた。これまた、成長の遅い話ではあるけれど仕方がない。これも今から、できるだけやるしかない。


などといろいろ自分のことを内省しながら、家族のことと、身の回りの人たちのことと、お世話になっている人たちのことと、そもそも自分が生かされている社会と世界のことについても、もう少しばかり広く深く感謝しながら考えられるようにならなければ、と思った。


みなさん、よろしくお願いします。



昨日のI/O

In:
ゴヤ・ジャパン北川貞大社長インタビュー
Out:
O社株主報告用原稿


昨日の稽古:

・ジョギング3キロ/20分