人生の折り返し点について



54年と8ヶ月ほど


生まれてから時間が経った。35歳を人生の折り返し地点とするなら、もう折り返しの半分を越したことになる。仮に、最近の男性平均寿命をベースに考えたとしても、人生の半分はとっくに過ぎて、残りの3分の1以上が終わってることになる。


夏休みなので(ということに表向きなってるので)本でも読もうと思って、引っ張りだしたのが『回転木馬のデッド・ヒート』。確か「トレーニングをして、20代の頃の体型を取り戻す」みたいな話があったはずと思ったら『プールサイド』という短編だった。


冒頭に次のように記されている。
「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえりし点を曲ってしまったことを確認した」


そして彼は、鏡の前に立って、自分の体を点検する。
「全体として見れば身長173センチ、体重64キロの彼の体はまわりにいる同年代の男たちの体と比べてみれば比較にならないほど若く保たれていた(中略)しかし彼の注意深い目は自らの体を覆っていく宿命的な老いの影を見逃しはしなかった(中略)どれだけ他人の目をごまかせても、自分自身をごまかしてい生きていくわけにはいかない。

 俺は老いているのだ。

 これは動かしがたい事実だった。どれだけ努力したところで、人は老いを避けることはできない」


ふむ。この人は35歳で既に、こう達観したわけだ。翻って自分はどうか。身長、体重はこの人と同じ。でも、この人よりほぼ20年も歳を取っている。自分は、自分がどれだけ老いているのかを、自覚できているのだろうか。


仕事をしていると、なんとなく感じることはあった。取材仕事で話を聞く相手が、自分より年下の方というケースが増えている。打合せに行っても、そこに揃っているメンバーの中で、自分が一番歳を食ってることがほとんどだ。


それどころか、今いるシェアオフィスでも「はい、お年寄りの方から順番に並んでください」と言われたら、前から5番目ぐらいに行かなきゃならないだろう。確か、このシェアオフィスには会員さんがざっと百数十人いらっしゃるはずだから、これはもはやなんともである。


だからって、どうなんだという話ではある。でも、残された時間の重みをもう少し意識すべきなのかもしれない。それは、年長者としての自覚を持つ、などという偉そうな話ではない。そもそも、そんなものはまったく持ち合わせていない。ずっと一人で仕事をしてきたから、そんな意識を持てるはずもない。


仮に会社員をやっていたとすれば、55歳ともなれば、それなりに何人かの部下がいて、◯長(◯に入る文字は運と才能に左右されるのだろう)に就いているのではないか。そこに至る過程では、常に何くれとなく目をかけてくれる上司がいて、自分が責任をもって面倒を見てやる部下もいるはずだ。


そうした人間関係が人を成長させる。


ところが、いわゆる会社勤めをしたのが24歳からの5年弱だけで、その後はデザイン事務所(スタッフ6名)、広告代理店(スタッフ7名)ときて、32歳で同い年のデザイナーと独立、というキャリアでは、上司や部下と何らかの関係をもつ機会などない。


仕事で関わるのは、クライアントであり、取材相手である。いずれもお客様であり、相手の年令には関係なく、常に丁重な対応を求められる。そんな状況の中で20年以上やってきているので、誰と会っても「自分が歳上なんだから」と意識することがない。


良い悪いは別として、そういうふうにしか人と接することができない。だから、自分の年齢に対する自覚がないまま歳をとってしまったのかもしれない。


けれども
「どれだけ進行を遅らせたところで、老いは必ずその取りぶんを取っていく。人の生命というものはそういう具合にプログラムされているのだ」
だとしたら、もう少し意識を変えるべきなのだ。


変えるべき意識は対人的なものではなく、自分自身に対する、あるいは自分に残された時間に対する意識だ。などということを考える夏休みの一日なのでした。


回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)


昨日のI/O

In:

Out:
某氏自伝本原稿

昨日の稽古:

ジョギング、筋トレ