ブログのリスク


32billionGBから160billionGBへ。


2003年からの3年間でネット上の情報量は5倍に増え、依然として急増しつつあるようだ(『ascii』5月号より)。ちなみに15世紀、グーテンベルグによって活版印刷が発明された頃、世界に流通していた情報量はわずかに0.01GB程度だったと推測される。その時代と比べていま流通している情報量は16兆倍にも上る。それがどれぐらいすごいのかと問われても、適切なたとえを思い付かないほどずごい数字と答えるしかない。


この3年間の情報爆発の立役者となっているのは、個人であり、ブログである。かつて大前研一氏は、95年のインターネット普及以前と以後で世の中が一変したことをもって「B.G(=Before Gates)/A.G(=
After Gates)」なる時代区分を立てた。95年がA.G元年である。これにならうならブログ誕生以前と以後「B.B(=Before Blog)/A.B(After Blog)」といった区分も成り立つだろう。その分起点が2003年ということになる。


確かにインターネットは情報流通のありようを根底から変えはしたが、HTMLなる専門用語を操れない人たちにとっては、ネット上で自分の意見を発信するのはまだまだ夢のまた夢に近いことだった。


ところがブログがパラダイムシフトを引き起こす。


今ではおそらくブログを始めよう/始めたいと思ったすべての人が「やるぞっ」と決めて10分以内に自分のブログを開けるのではないか。いまどき小学生だって自分のブログをもつ時代である。そこにどんなテキストを書くのかといった極めて本質的な問題は残るにせよ、とりあえずネット上で自分の意見を発信するメディアを、誰でも、無料で、ごく簡単に持つことができるようになった。


これは史上初の出来事である。そしてこの「史上初」はどれだけ強調しても強調しすぎることがないぐらい重要なポイントである。なぜなら情報統制はこれまでの歴史を通じて、常に権力者サイドの特権であった。情報を制するものが、富と力を制して来たのである。その富と力の根源が歴史上初めて、原則的には一般大衆に解放された。


その結果、引き起こされたのが情報爆発である。


ところが、この情報爆発が実は極めて危険なネット民主主義を育み始めているような気がしてならない。なぜか。その理由はブログに書き込まれたテキストがどのようにして他の人の目にふれるかを考えてみればよい。


ネット上に書き込まれた恐るべき量のブログは、基本的にはまずGoogleなど何らかの検索システムにピックアップされることによって人の目にふれることになる。ということは既存の検索システム(Googleはもちろんはてぶ、TechnoratiLDRなどすべて含む)に引っ掛からないテキストが、自分以外の誰かに読まれることもまずない。わざわざブログとしてインターネットに公開する限りは、書いたテキストを読んでもらいたいと考えるのが人情だ。


ここから二方向のベクトルが派生することが容易に予測される。


一つは検索に引っ掛かりたいが故に、検索システムにピックアップされやすいテーマ(キーワード)・内容のテキストを進んで書こうとする流れである。そうした書き手が増えれば、同時にそこである種の循環的な流れが起こることもほぼ確実である。すなわち特定のテーマについて検索上位に表示されるであろう内容のテキストがネット上に増え、それを見た人がさらに同じような意見を書き込む。ここであるテーマについて特定な見方が自己増殖を繰り返すサイクルが構築される。多数派の自己増殖みたいなイメージだ。


梅田望夫氏は『Web2.0』で、Googleに代表される検索エンジンの進化こそが価値の高い情報とネット上で人が出会うための条件といった主張をされていた(ように思う。もしかしたら読み間違いがあるかもしれない)。要するに質の高い情報がネット上に提供されていれば、そうした情報を探している人はGoogleを通じて、求めている情報と出会うことができるといったニュアンスである。


しかし、もしかするとGoogleには自らは意図せぬ形でネット上の独裁者として機能するリスクがありはしないか。問題はPageRankである。このGoogleによるランキングシステムの原理は、多数決というか人気投票というか。要はどれだけたくさんの人が支持しているかがベースとなる。


であれば一見受けのいい意見、もっともなコメントなどがいったん好評を得れば、それが恐ろしい勢いで自己増殖していく。


ということは、特定のテーマに対して、オリジナリティの高い(=大勢の人とは違った)テキストほど、グーグル流にいえばPageLankが低いと判断されるリスクがある。もとよりオリジナリティが高かったり、あるいは大勢の人とは違った主張をしているテキストの価値が必ず高いなどとはいえない。いえないが少なくとも

「少数意見を探すのに、現在の検索エンジンはほとんど意味をなしません」
(『ascii』2007年5月号、53ページ)

この言葉の意味するところは、しっかりと胸に刻みこんでおくべきだろう。


いまの検索システムで最大にして最悪の問題点は、検索上位に「普通とは違った」内容のテキストが上位表示されにくいことである(というか検索システムの基本的原理を考えれば、それで当然なんだとおもうけれど)。ただし、この問題は検索エンジンを使う人のリテラシーによってある程度クリア可能である。


つまり何でもググって検索上位10番目ぐらいまでに表示されるテキストを読んで「なるほど、そういうことか」と納得するのか。それとも上位表示されている意見をみて「なるほど一般的な趨勢はそのようだが、果たしてそれでいいのか。反対意見はどうなのだ?」と省察し、あえて検索下位のテキストまで読みにいくのか。


ことを検索エンジンの問題としていては、ここで最適解を見出すことはできないだろう。そうではなく、やはり検索者自身が、どれだけ面倒くさい作業を引き受けるかによるしかないのだろう。


とりあえずGoogleを使い続けるなら、検索表示を50件ぐらいに設定し、最低でも2ページは見るような習慣をつけたいものである。加えて検索上位に表示される傾向とは、まったく逆の意見を想定してみることである。


これほどまでの情報の大海を俯瞰的に見ることは、おそらく並の人間には極めて困難な課題ではないだろうか。であるならば、とりあえず「その正反対の意見はどうなるんだ」とか「その逆を考えると」といった思考習慣を身につけることが、ネットに流されないための自衛策として機能するだろう。


そうしたリテラシーを身につけないとせっかく個人が自分の考えを自由に発信できるネットの恩恵が、かえって徒花となるリスクがある。そんな時代に生きていることを強く意識すべきだと思う。




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レヴィナスと愛の現象学内田樹
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