居着くとは何か
「松井さあ、打席では歩いた方がいいに決まっているよ」
落合博満のこのひと言が、松井秀喜のその後のバッティングを決めたそうだ(日経新聞4月25日)。それまで松井は自然な体重移動を求めてさまざまな試行錯誤をしていた。足を上げる・上げない、高く上げる・少しだけ上げる。悩んだ末に出会ったのが、この落合のひと言だったという。
少しだけ話がそれるけれども、落合博満こそ王も、長嶋も、もしかしたら川上をも(リアルタイムでみていないので判断留保というところですね)超えるバッティングの達人だと。ちょうど落合の全盛期に大学で野球をやっていたこともあって、強くそう思う。何が達人なのかといえば、ボールの捉え方、ひいては野球に対する、さらには人生観までいってしまうのだけれど、ある時期までの落合はあらゆる意味で武人だったと思う。
さて。
打席で歩くとはどういうことか。歩くことこそ人間にとって自然な動きであり、タイミングもとりやすく、崩されにくい。
この話を読んだすぐあとで『私の身体は頭がいい/内田樹』を読んだ。このなかに「居着き」のことが説明されている一章がある。
「居着き」とは文字通りには、足裏が床にはりついて身動きならない状態を指す。より一般的には、心理的なストレスが原因で身体能力が極度に低下することを意味する。
<中略>
柳生宗矩は「居着き」を「病」と名づけた。
(内田樹『私の身体は頭がいい』新曜社、2005年、90頁)
居着いてはいけないのである。以前からも稽古のときに、塾長や師範代が何回かそういわれていた記憶はあった。松井の記事を読み、落合の言葉を目にし、さらに内田先生の本にふれて、居着くとはどういうことか。なぜ居着くことがいけないのか、が少しだけわかった(ような気がした)。
組手のときに居着いてしまうのは、やはり恐いからだ。この恐怖感を克服することが、塾長がいわれる「心を武器にする」ことである。まず、この心の問題を解決することが大前提だと思う。そのために、どうするかというのは、また別の問題として残るわけだが、とにかく一つ目標がはっきり見えてきたことは間違いない。
そのうえで、居着かないためにはどうすればいいか。
ここは難しい。落合によれば「打席の中では歩いた方が良い」のだけれど、まさか組手のときに歩き回るわけにもいかない。と思いつつ、この言葉にはとてつもないヒントが秘められているようにも感じている。
なぜなら、相手に反応してもダメだと思うからだ。たとえば相手が突いてきたから、それを受けて返す。相手が蹴ってきたから、それを受けて返す。約束組手などの稽古で、こうした練習方法を取り入れることは大切なのだけれども、いざ組手となったときには、たぶんこれでは反射神経の争いになってしまう。
となると、若い人には勝てない。反射神経の良い人には勝てない。技の速い人には勝てない。勝てなくても良いのだけれど、相手の技をもらってしまうことは間違いない。などという話をしていくと、知識だけならたとえば「先の先」「対の先」「後の先」などの話にもつながっていくのだろうとは思う。
が、とりあえずは相手に反応しないことを考えていきたい。これもたぶん間合いの問題であったり、ペースの問題であったり、心の問題であったりするはずで、やはり空手の奥は深いのである。
そして奥が深いが故に、生涯かけてその深い奥の少しでも先に行けることがうれしいのだ。
昨日のI/O
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