牡蠣フライとルーの蜜月



牡蠣フライカレー490円


カレーが好きである。毎日食べたいほどのマニアじゃないが、時おり「そろそろカレー食べませんか」分泌物が脳内に発せられる。以前なら、近所のココイチで手軽に済ませていた。が、ある時をキッカケに、そんじょそこらのカレー屋にふらっと入ることができなくなってしまったのだ。


『太陽カレー』のせいである。「せいである」などと表現すると、まるで『太陽カレー』が悪者のようではないか。違う違う。正しくは『太陽カレー』さんで、本当のカレーの深さを知ってしまったからである。


確かに『太陽カレー』前は、ココイチでも特に不満はなかったのだ。辛さを2辛ぐらいにして、さらに卓上スパイスを振りかけてしまえば、とりあえず辛い。カレーは辛くてなんぼやろ、的な味覚にはこれで十分である。しかしながら、本物のカレーはそんなものではなかったのだ。


という話は、前回ブログに書いた。


ときに牡蠣が好きである。基本的に嫌いな食べ物はほとんどない。あえていうならカボチャの煮っ転がしの口に含んだときのもったり感が若干嫌なぐらいである。たいていのものを美味しくいただくことができる、得な味覚をしている。


が、中には、これがめっちゃ好きやねんという素材もある。山の幸なら松茸であろう。その土瓶蒸しは山の神さまである。海の幸はてっさと牡蠣である。と並べてみると、松茸、てっさともに、そうそう頻繁には食べることのできない食材であることがわかる。そこで牡蠣である。


実は昨夜も鉄板焼き屋さんで、牡蠣のバターソテーを食べた。一週間ほど前には、近くの行列のできる洋食屋さんで牡蠣フライランチを食べた。Rの付く月には、こうして牡蠣をいただいては小確幸を味わっているのです。これぞ小市民的喜びと言えよう。


その牡蠣とカレーがドッキングするとどうなるか。実は、ココイチでも牡蠣フライカレーを食べたことがある。その時の結論は『好きなもの』+『好きなもの』は2『好きなもの』とはならないというものだった。牡蠣の滋味と、ルーの辛みがケンカするのだ。


が、私は本当に浅はかでした。ばかでした。


『好きなもの』と『好きなもの』は足し算ではなく、かけ算になるのだ。背戸さん(the Owner Shef of 太陽カレー)スペシャル・ルーの魔力である。


もちろん牡蠣そのものが美味しいのである。ほんの薄く付けられたパン粉にくるまれた牡蠣は火の通りぐあいが絶妙。うまさがいちばん引き出される火加減なのだろう。ということは、おそらく、ルーの上に乗せられてからの余熱のかかり具合も考えているのかもしれない。


その牡蠣フライをルーにまぶして口にほおばる。広がる。ふくらむ。たまらんですよ、この純粋なうまみ。最初に感じるのは、いかにも牡蠣です、といった海を感じさせる苦味である。これがエピローグであり、その苦味を包み込むのが、太陽を思わせるピリッとしたルーの辛みだ。これがあるゆえに、最後に再び牡蠣の味が顔を出す。何とも言えぬさわやかな甘味が出てくる。


食べながら「あらら、もう牡蠣があと二つしかない」とか「ルーがほとんどない」とか考えさせられてしまう。食べ終わることが、切ないというかもったいないというか。もっと食べていたいというか。いや、深い。


家の近くにも一軒、カレー専門店がある。脱サラで始めた若い店主が、一からスパイスだけで作り込んでいるカレーだ。これもうまい。が、太陽カレーと比べると、深みが違う。


このルーの深みは何だろうか。以前、少しだけ伺った店主・背戸さんの人生経験の深み、そのお人柄が表れているのかもしれない。いや、ほんと罪作りなカレーです。もう、これで、よそで、牡蠣フライカレーを食べることはできなくなってしまいました。でも、このカレーと生きているうちに出会えた私は、幸せ者であります。


ごちそうさまでした。ありがとうございました。




昨日のI/O

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『日本の大転換』中沢新一
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うつ本ブックレビュー
EAP研究所取材原稿
院内感染セミナー取材原稿

昨日の稽古:

東山トレランコースジョグ14キロ