20160101


あけましておめでとうございます。

今年は、遂に年賀状を出さなかった。その代わりにブログでごあいさつ。とりあえず、今年は仕事をもっとがんばる。これが目標だ。去年は約200回取材をして、同じくざっと200回走った。34回研修やセミナーで話をして、35回ホテルに泊まった。原稿は5500枚ほど書いた。


これを少しでも充実させたい。取材回数をこれ以上増やすことは、正直難しい。だから内容を濃くすること。取材を受けてくださっている方とは「一期一会」の覚悟で、その場にきちんと居ることを心がける。相手の言葉を聞き流さないよう意識する。そのための事前準備もしておく。


研修やセミナーは、今年の課題。自分が知っていることを、人に役立ててもらう。そのためには、知っていることを伝えられるよう再咀嚼する必要がある。このプロセスで自分の理解が深まり、自分にとっての学びとなる。マーケティングと書くことを絡めて、お伝えする機会を作っていきたい。


ところで一日は誰にとっても24時間である。けれども時間は、確実に伸び縮みする。毎朝、座るようになって、そんな時間感覚の変化に気がついた。たとえば何かに熱中している時には、あっという間に時間が経っている。逆に、何もできずに、ただその場にじっといなければならないようなときは、時間の流れを遅く感じる。


自営業の良いところは、無為に過ごす時間を極力減らせることだ。だから、何をするにしても、それは自分の意志で選んだ行動になる。だからこそ、時間の使い方を、いつも意識するようにしたい。


などとたいそうなことを、いつも考えているわけでは決してない。ないけれども、残り時間を意識すべき年齢になっていることも確かなところ。何しろ今月末には「アラカン」である。あまちゃん風に四捨五入したら「もう百歳だっぺ」となる。昭和20年代までは、この歳ぐらいが平均寿命だったはずであり、スティーブ・ジョブズが亡くなった歳でもある。


にもかかわらず、自分は、まだ何も為していない。そのことを肝に銘じて、今年一年を頑張りたいと思います。よろしくお願いします。


昨日のI/O

In:
『Content strategy』
『いちばんやさしいコンテンツマーケティングの教本』
Out:

昨日の稽古:

ジョギング1時間・体幹トレ・筋活

体重と脂肪と筋肉の関係


45キロから70キロまで


体重を意図的に変えたことがある。最も減らしたのが高3の夏で45キロ、いちばん多かったのが43歳ぐらいの時の70キロ。上下25キロの違いがある。


病気で増減したわけではない。高校生最後の夏は、やたら根暗(死語ですね)な文学少年で、とにかく太っていることを罪悪視していた。その頃愛読していた『Rock'in On』の人気ライターだった松村雄策氏が「太っている奴にろくな奴はいない。ロックミュージシャンは、みんなガリガリだ」と言っていたからだ。


今になって38年前の映像を見れば、例えばリッチー・ブラックモアにしてもジミー・ペイジにしても、結構ぽっちゃりしている。なぁ〜んだ、である。さすがにヘビーに薬をやってたらしいキース・リチャードはげっそり痩せている。どっちがかっこいいかといえば、やっぱりキースだ。でも、今のキースは、痩せこけたジジィになってしまっている。ミック・ジャガーの方が見栄えは断然良い。


さておき、この頃は一日一食、昼前に牛乳を入れたボウルに、バナナ一本をちぎって入れて食べていた。あとは、晩ご飯のとき、ほんの少しだけ家族に付き合っていたような記憶がある。おかげで45キロになった。体力もまったくなかった。


これが一転、浪人してからは「めざせゴルゴ13」となり、ダンベルを買い、筋トレに精を出し、毎日夕方走り、晩ご飯をしこたま食べるようになった。当時、かぶれていた大藪春彦の影響もあり、とにかくボローニャソーセージを500グラムぐらい食べることをもって由としていた。その頃に見た『ロッキー』を真似て、生卵をコップに2個入れて飲んだりもした。これはまずくて、えづきました。


めでたく大学生となり、軟式野球部でピッチャーをやらせてもらった一回生の頃が、体力絶頂期だったと思う。短距離だけは徹底的に遅かったが、遠投は80メートルを超えたし、野球部内対抗大文字マラソンは、先輩に15分ほどのハンディを出しても全員追い抜いた。


ところが、社会人となると運動している時間がない。最初に入った印刷会社でも業務部にいた頃には、まだゆとりがあり、朝にトレーニングをすることもあった。これが営業に配属されると、とにかく帰る時間が遅い。おまけに酒を飲む。たまの休みは疲れ果てて寝ているだけ。という生活で、どんどん体が緩んだ。


それから10年ぐらいが経ち、40歳になって空手を始めた。これはまた、えらい世界である。当時の道場長は、身長175センチぐらいで体重が90キロぐらいはありそうに見えた。腕が太い、胴体がごつい、足もゴロンとしている。「どうぞ、好きなように蹴ってください」といわれても、蹴ったこっちの足のほうが痛い。お腹をおもいっきり叩いても、何の反応もない。


一方で、師範代は身長は私と同じぐらいだったが、太ももと二の腕の太さが異様である。Gパンがパンパンというが、本当にはちきれそうだった。それでいて体は柔らかい。だから、足がしなって蹴りが飛んでくる。とにかく、そんないかつい人たちばかりである。


先輩方は、40にもなって入ってきたおっさんを本気でどついたり蹴ったりするつもりはなかったのだろうけれど、やはり頑張らねばと思ってしまう。そこでフィットネスクラブに通って、本格的に筋トレで鍛えることにした。いろいろなマシンを使い、「ちょっとこれ以上は無理です」な重さで7回がんばる。そんなトレーニングを週に3回ぐらい続けた。


食生活も意識するようにした。とにかく肉を食べる、牛乳を飲む、たまごを食べる。がんばったおかげで、最大で70キロぐらいまでいった。そうなると、少々蹴られてもどつかれても、そんなに痛くなくなった。人の体はほんとうに面白い。


で、2週間ほど前から、また、新しいことに挑戦している。2ヶ月ぐらいかければ、成果が出るらしい。今度は、どのように変わるのか。とても楽しみである。歳を取るほど、いろんな不純物が貯めこまれているので、それを振り払ってまで変えるのは大変だという。そう言われれば、やってやろうじゃないのと思う。結果は、やってみないとわからない。でも、がんばるのである。

昨日のI/O

In:
『Number』野茂さん特集
Out:
某原稿下書き12枚
某原稿プロット5枚

昨日の稽古:

ジョギング

「くらい」と「以上」の間


時間にすれば、おそらく24時間


〆切を前倒しで設定できるかどうか。これがアマとプロの差になるような気がする。クライアントに提出する〆切の24時間前を、自分にとってのデッドラインとして設定する。そこからが、たぶん本番の勝負だ。


提出時間を、そのまま自分の〆切としてしまうとどうなるか。とりあえず書き上げた時点で出すことになる。もちろん、そこまでのプロセスでも手抜きなどしていない(と思いたい)。けれども、気持ちのどこかで、これ「ぐらい」がんばったから良いだろうと甘えが入り込む気がする。


これに対して、本来の提出期限のの24時間前を『自分〆切』と設定すると、状況が変わる。つまり「まあ良いか」レベルまでがんばったところから、さらに詰めることができる。その後の時間のすべてをかけることはできないにせよ、これ「以上」は無理かな、と思えるぐらいにまでは煮詰めることができる(かもしれない)。


この粘りが、質を高める。そう思う。


原稿は一晩寝かすこと。多くの先達が書き残してくださったアドバイスの意味が、ようやくわかったような気がする。「今さら何を言っているのだ」との批判は甘んじて受けるしかない。ただ、現役として仕事をいただけている間に、気づくことができてよかったと心底思う。


まだ、この先も、おそらくは何百本かの原稿を書くだけの時間は、あるはず。それなら書かせてもらう原稿に対して「一期一会」の心構えで向き合うこと。同じクライアントから、同じテーマで、同じ文字数の原稿を依頼いただくことなどあり得ない。だから、請け負った仕事に対する真摯さを、もっと突き詰めなければならない。


そのためには、仕事の復習をしたほうがいい。例えば打合せに行ったら、メモを見返して大切な点をEvernoteにでも打ち込んでおく。取材をしたら、できればその日の内にテープ起こしに手をつける。それができないのなら、やはりメモを見返して、覚えている限りのことを書き込む。可能なら、原稿のタイトル(いちばん言いたいこと)と、見出し(原稿の流れを示す言葉)を一度考える。


そして、忘れる。


改めてテープ起こしと向き合う。といった作業を繰り返していけば、今より少しでもクォリティの高い原稿を書けるようになる。などと呑気なことを言っていられるのは、今の仕事の回り具合が良いからであって、これがまた仕事が立て込んできたら、そんな悠長に構えていられないのだろうな。


このブログを書いて二日後に、一歳年下の知人の訃報が入ってきた。知人といっても、中学時代にやっていた卓球部のライバル校の人。当時の記憶はまったくない。それが2年ほど前にFacebookでつながり、二度ほどお会いした。


彼は、個人で不動産業を営んでいた。帰りが遅いのを心配した奥さんが、事務所に行ってみると、既に亡くなっていたという。心臓の病だったらしい。そんな知らせを受けると、あと何百本も原稿を書けるなんて保証はどこにもない。いま書いている原稿が、最後の一本になるかもしれない、と思うこと。これが最後の原稿になって良いのか、そう自分に問い続けながら、書かなければならない。そんな気がする。


昨日のI/O

In:
『データの見えざる手』
Out:
某原稿推敲14枚
某原稿下書き5枚

昨日の稽古:

ジョギング

誰に何を伝えるか




キーボードの向こうに、誰を思うのか


何も知らない子どもたちがいる。その子どもたちに、理科の、もっと大きくいえば科学のおもしろさを伝えたい。そう思って取り組んだ仕事が、立派な本になった。


といっても、全編365のお話のうち、担当させてもらったのは20本ほどにすぎない。最初の取材依頼があったのは、去年の春だった。ギャラが極めて限られた仕事で、ヘタをすると交通費も出ないかもしれない。けれども、意義があると信じている仕事なので、ぜひ、協力して欲しい。


そんなオファーを編集者から受けた。だから、京都近辺の研究者を取材対象として、時間の開いている時で良ければ、という条件で引き受けた。


最初の取材は、工繊大の先生。取材テーマは、ヤママユ。資料を読んだ時点で、タイトルと原稿の流れはだいたい頭の中に浮かんでいた。それを元に先生に話を聞き、考えている原稿の組み立てを話すとOKをもらえた。原稿の文字数は500字程度だから、ごく絞り込んだ内容になる。取材自体は、それほど時間のかかるものではない。


けれども、工繊大には他にもいろいろお世話になっていて、みたいな話をすると、先生も興が乗ったようで、結局1時間ぐらいお話していた。


次の取材は、真夏の金沢だった。さすがに金沢まで行くとなると、交通費もきっちり見てくれるという。しかも、一人の先生に取材して13本記事を書くことになるらしい。これぐらいまとまれば、そこそこの仕事になる。


なぜ島ができたのか、山ができたのか、富士山があの形になった理由は、などなど。わかっているようでいて、いざ子どもにわかりやすく説明しなさいと言われれば、できないネタばかりだ。取材自体は、てきぱきと進めたので、12本(一本は内容がかぶるので取り止めになった)2時間勝負でケリが付いた。が、さすがにへとへとになった。


そのあと、門真まで出かけて、ある先生のご自宅でミツバチの話を伺ったりもした。この先生への取材に関しては、事前に編集部との連絡で行き違いがあったようで、怒っておられるかもしれないという。お詫びにおみやげを持って行ってくれと言われていた。


確かに、最初はちょっと怒っておられたのかもしれない。待ち合わせの場所まで先生は自転車で来られて、そこからご自宅まで案内してくださるのだが、先生は自転車に乗ったままだ。だから、かなりな早足というか、駆け足で追っかけなければついていけなかった。真夏のお昼1時ぐらいで、日陰のない道を駆けるのは結構キツイ。


けれども取材が始まると、空気は一変する。こちらは、ミツバチのことなど何も知らない。そこで、いろいろ興味深く質問すると、とてもていねいに答えてくださる。ほんの少し持っている理系の知識を背景に、話を引き出すと、先生も興が乗ったように話してくださる。


30分ほどの取材と言っていたのが、気がついたら2時間ほどが経っていた。最初に冷たい麦茶、次はコーヒー、最後にはわらび餅まで出してもてなしていただいた。


ほかにスカイプを使った取材も3本ほどやって、原稿を書き始めたのが10月頃だったか。年内には校了したいので、と言われつつも、それほど催促は受けなかった。考えてみれば365本もの原稿を扱っているのだから、編集者としてもそのうちの20本ぐらいなら、なんとでもなると思っていたのかもしれない。


さすがに12月頭には原稿を出すと、今度はゲラが戻ってくる。1日1本で、内容を補足するイラストが付けられている。この時点で、これは面白い本になると思った。ときに先生からのチェックで修正原稿を書くこともあったが、1月はじめには校了


そして忘れていた頃に、できあがった本が一冊届いた。本の顔がとてもよい。中身をパラパラめくると、そのまま引きつけられて読んでしまう。決して自画自賛などではなく、他の方が書かれた原稿が実に興味深い内容なのだ。


わかっているつもり、そんなの当たり前と思っていることを、科学的に説明すると、どうなるのか。小学校4年生の子どもがわかるように書かれている。


自分は何のために書くことを仕事にしているのか。その意味を、改めて教えてもらったような気がした。何も知らない誰かのために「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」伝える仕事。やっていたよかったと思いました。


昨日のI/O

In:
『ヒトの脳にはクセがある』
Out:
某原稿下書き8枚
某原稿下書き10枚

昨日の稽古:

基本稽古・ミット稽古・受け返し

違和感が教えてくれるもの


28分38秒


今年よりタイムを縮める。新しい目標ができた。さて、がんばろうと水曜日に走ってみたのだが………。


走り終わった後の感触がよくない。左足のアキレス腱のあたりに違和感がある。痛いかと問われれば、そこまで強い感覚があるわけではない。足に力が入らないというほどでもない。ただ、なんとなく普段なかった感覚が、確かに存在する。これは体が発する警告信号だ。


去年の秋に一度、ふくらはぎの肉離れをやった。朝、いつも通りに走りに出て、七条あたりから鴨川の河川敷を駆けていて、ちょうど五条大橋の下辺りで「プツン」と切れた。このときは、走り始めてすぐに右足のふくらはぎがガチガチに固まっていることに気づいていた。


なんか疲れでもたまってんのかな。それやったら、ゆっくり走ったらええやろ、ぐらいにしか考えることなく走りだす。いつもなら、それで体があったまってくれば、ほぐれるところが、一向にゆるんでこない。むしろ、まだ硬いなあと思いながら走っていて切れたのだ。


そのあと、5日ほどで治ったと思って加圧ベルトをして走ってみて、プチッとやり、3日ほどおとなしくして出張に行った東京で、タクシーを停めようと横断歩道を駆けて、またプチッときた。結局、一ヶ月ぐらいは走れなかった。


あるいは、ちょうど一ヶ月ほど前の朝。やはり走り始めてすぐに気づいた。なんか腰がえらくこわばっているなと。まあ、寒いからですね、しかも寒い部屋で縮こまって寝ていたからですね、これはきっと。だったら、ゆっくり体を温めてほぐしましょうと走った。


走っている間は何ともなかったのだが、戻ってストレッチを始めた時に異変が起こった。右足を曲げて左足を伸ばし、そのつま先を左手で掴んで、足の裏側を伸ばそうとしたときに、右の腰に電気が走った。


やばっ! と思ったが、とき既に遅し。腰が熱を持ち始めているのがわかる。何とか立ってシャワーをして、戻る頃にはエライコッチャ状態である。経験者は知っているのである。この先、痛みが増してくることを。だから、持っている腰サポーターで腰を締めあげて、仕事に出かけたのであった。


当日の取材は何とかこなす。けれども、いつもならカメラマンの三脚バッグを持ってあげるところ、この日は手を出せなかった。嵐電に乗って席に座るときも、端っこの席に手すりにすがりながら恐る恐る腰を下ろす。ともかく急な動作は厳禁、腰に力がかからないよう気をつけて歩く。


腰痛はその次の日に、さらにひどくなる。そういうもんである、わかっているのである。けれども、この日も取材に行かなければならない。歩くのはつらい。けれど、タクシーに乗り込むのは、さらにきつい。とはいえ、取材先まで電車を乗り継ぎ歩いて辿り着く自信がない。無理してタクシーに乗り込む。


そして取材先は、狭い急な階段を上がったところにあった。階段の昇り降りだけで、き・つ・い。


という苦難を経て学んだこと。違和感はサインである。「あきませんで、無理したら。おとなしい、しときなはれ」と体がメッセージを発しているのだ。これを無視すると、ケガをする。さすがに二度あることを三度起こしてはいけないのである。


万が一、アキレス腱を切ったら、手術して入院して松葉杖をついてと大変なことになりますから。だから、違和感が消えるまでは、おとなしく腹筋して、腕立てして、ダンベル振り回していることにする。


なにしろ目標は4時間半である。来年は、きっと、このタイムで走ってやるからな。と決意する2月21日の朝であった。


昨日のI/O

In:
Velcade関連資料
Out:

昨日の稽古:

腹筋各種

体の中で何が起こっているか



4時間58分38秒


走り続けると、体内ではいろんなことが起こるようだ。せっかくなので京都マラソンの記録。


午前4時、枕の下のiPhoneが鳴って目が覚める。昨夜は8時にふとんにもぐり込んでいるから、8時間寝たことになる。でも、何だか眠い。少しでも寝ておいたほうが良いと思って、タイマーを1時間にセットする。すぐに寝落ちしたようだ。


1時間後、またiPhoneのアラームで起きる。まだ眠い。あと30分だけとタイマーをかけ直す。瞬殺で眠りに入る。もう一度、タイマーが鳴る。起き上がっておかゆを温める。味噌汁と一緒に取るのがよいらしいが、ないので、塩をたくさんかけて食べる。水分のとり過ぎに注意するようにとも指示されていたので、お茶はカップ半分に抑える。


着替えて、ワンコの散歩。いつもより1時間ぐらい早く外に出られるので、ワンコはうれしそう。どんどん勝手に歩いて行き、リードを引っ張る。ええよ、お前の行きたいとこ、付いていったるからと、彼の好きな公園まで行く。ひとしきり匂いを嗅いで、公園から出て、家に戻る。


ラソンの準備をする。まず、必要なもの(服ばかりだけど)を並べる。今年は防寒用の古着を、出発地点で引き取ってくれるという。だから捨てて良いジャージとカッパを着て行くことにする。足はタイツと短パンに、ふくらはぎを守るサポーターも付ける。上半身は長袖のシャツの上に、半袖を着る。


ゼッケンを付ける。ゼッケン1枚に付き、安全ピンが8個。4隅にピンを刺してつけろということなのだろう。小さなピンは、老眼の敵である。何度か指を刺す。ゼッケンの隅っこをくちゃくちゃにしながらも、何とか背中とお腹の部分に付け終わって、やれやれと思いながら、ゼッケンが入っていた袋をみると、紙が一枚残っていた。


読むと「計測用タグのついている方を表にせよ」と書いてあるではないか。逆につけている。あらあら、そういう大事なことは、もっと目立つようにわかりやすく書いてくれんかな。Tシャツの前後ろを反対に着て走ってやろうかしらんと思ったが、それも大人げない。思い直して、もう一度安全ピンを8個付け直す。やれやれ。


7時過ぎに家を出て、会場に向かう。とりあえず、たくさん人がいる。みんな、そんなにマラソンが好きなんかな、と少し不思議な気持ちになる。しんどいだけやんとか、足痛なるのにとか、途中で歩いてしまうかもしれんのにとかいろいろな思いが湧いてくる。荷物を預けて、スタート地点に向かう。遅い人たちは別会場からのスタートになるのだ。ここで鬼軍曹殿と落ち合う。この方は3時間台で走る力を持ちながら、今日は私のために5時間組でスタートし、ずっと伴走してくれるそうだ。ありがたいことである。


スタートまで、まだ40分ぐらいあるが、幸い古着を着込んでいるので寒くない。話し相手もいるので、去年ほど時間を持て余すこともない。9時過ぎに列が動き始める。スタート台に去年同様おられた女神を拝顔して、走り始める。ほぼ10分遅れである。


今年の目標は5時間を切ること。去年が5時間2分だったから楽勝だと考えていた。しかも、去年タイムロスした教訓を活かして、走りだすまでは水分を取らない&とにかく早めにトイレに行き(まだ並ぶ人がほとんどいないので)タイムロスしないようにする。去年の5時間2分はタイムロスが10分ぐらいあってのこと。あれから1年かけて練習してきたのだから、今年の5時間切りは楽勝と思っていた。


実際、体が動く。これなら、秘かに狙っている4時間半も切れるのではないかと思いながら、序盤のコースを走る。嵯峨でJRを超える橋を、結構軽やかに駆け上がり、その後に続くアップダウンも快走。「いいペースですよ。キロ6分半ぐらい」とか言われて、その気になった。立命館大学までの上り下りをがんばって走った。


わら天神から西大路に出て、そこからの緩やかな上りも「走る」。千本北大路に知人の建築士さんが応援に来てくれているというから、ちょっと速く走っていき、息子さん(以前、私が上げたMacのマウスを持ってきてくれていた)とハイタッチ。快調である。


次は、大宮の交通公園の近くで、また知り合いの女性が応援してくれているという。これも見つけて手を振る。結構、余裕やなと思いながら走っていたのだが、さて。上賀茂から鴨川の土手を走り、北山通に入ったあたりで、最初の異変に襲われた。


左足が「抜ける」のだ。時々、着地した時に「すかっ」と力が入らない。おかしい。去年は狐坂を走って上がり、下りで足が軽いことに気づいて、そこから「走った」のに、今年は早くも足の力がなくなっているようだ。北山を折り返して、下鴨中通に入ったあたりで、腰がきつくなってきた。だるい。これも去年にはなかったこと。早い話が走るのがつらい。


といっても謀反を起こしているのは、下半身関係である。腰がだるく、足に力が入らず、膝が少し痛むだけだ。上半身は何ともない。意識もしっかりしている。だから余計に疑問が湧いてくる。おかしいな、去年のマラソンの後に1000キロぐらい走って練習したのにと思いながらも、脚はどんどん弱っていく。北山橋の手前でふくらはぎのサポーターを外す。少しだけ楽になった気がする。


鴨川の河川敷コースに入ると、橋の下をくぐり抜ける時に、ほんのわずかなアップダウンがある。これがきつい。やばいなあ、走りきれるのかしらんと、先のコースを考えてみる。丸太町に出て烏丸まで行き、河原町まで戻ってきて、市役所に行く。そこでターンして河原町丸太町まで行って橋を渡り、川端を東一条まで。東大路、今出川銀閣寺道まで上がって戻る。うんざりする。


京都のコースで何よりうんざりさせられるのは、折り返しの多いこと。たくさんの先行ランナーとすれ違うたびに、まだぎょうさん走らなあかんことを思い知らされる。市役所からの折り返しで歩きそうになった。すると間髪入れずに鬼軍曹が「やばいっすよ。このままだと5時間超えますよ。ペースアップしましょう」とか、励ましてくれる。


ペースアップねえ、できればしますけど、ブツブツ。と言葉に出さずに足を動かす。とにかく、一歩ずつ前に脚を出す。あくまでも歩くのではなく、走っているつもりで動かす。だから、手を意識して振る。そして最後の作戦「オペレーション:可能な限り脚を速く動かす意識で頭をいっぱいにする」を実行する。


不思議なことに、これで、ほんの少しペースが上がった(ような気がした)。銀閣寺道からの下りでは、気持ちだけ足の動きが早くなった(ような気もした)。このままゴールまで走れば、5時間は切れそう。と思って鞭打った結果が4時間58分38秒となった。


ゴールした瞬間に感じたのは「肩、だるっ!」だった。リラックスしていたつもりだけれど、ガチガチに力が入っていたみたいだ。足は膝のあたりが痛い。ともかく42.195キロ走り続けることができた。


だが、不思議だ。去年のタイムロスを考えれば、今年のほうが遅いし、しんどい。しかも、今年は狐坂を登っていないから、コースも楽になっている。一年間、かなりきちんと走っても来た。なのに、どうして、こんなにつらいのか。


結論。一年分だけ、年をとった、ということなのですね、これは。肉体が下り坂に入るとは、こういうことなのかもしれない。などと、いろいろ考えさせられた、今年の京都マラソンであった。


とりあえず橋本軍曹、あなたのおかげで5時間を切ることができました。ありがとうございました、

昨日のI/O

In:
『指の骨』
Out:

昨日の稽古:

凍える夜の安眠法



体感温度零度


ちょっと大げさかもしれない。けれども、盆地京都の冬は底冷えがする。キリキリと寒さ募る京の町のビルの1階で眠る。築40年以上のビル故に、暖房装置は屋上に設置された巨大なガスエアコンとなる。これを稼働させると、ご近所一帯に響き渡るような唸り声を発する。


よって町が寝静まる夜間に、エアコンを動かすのはご法度となる。1階に火の気はない。しかも、玄関を塞ぐガラスの引き戸は立て付けに若干の難があり、真ん中に5ミリほどのすき間が空いている。もちろん、風の抜け道はないので、夜風が吹き込むことはさすがにない。


けれども、寒気はしんしんと忍び込んでくる。早い話が半端なく寒いのである。そこにただ一人、ふとんを敷いて寝ている。家族は4階でぬくぬくと眠っている。暖気は高いところへと上がっていく。3階では火の気もある。ならば、わざわざ寒々しいところで寝なければよいのだが、諸事情によりそうもいかない。


これでも、夏から秋にかけては実に快適な寝室であった。何しろ畳にして二十畳ぐらいの空間を独り占めしているのだ。そのゆったり感たるや半端ない。坪庭に向けて開いた窓にかかるロールスクリーンを上げておけば、やわらかな朝の光が差し込んでくる。目覚めも、心地良い。毎晩、少しずつ場所を変えて眠る、などというバサラチックな芸当もこなしてきた。


やがて季節は巡り、冬に入っても、寒さが本格化するまでは、なんてことはなかったのだ。だが、しかし。


1月に入ったある夜、いつも通り瞬殺で眠りに落ちたものの、夜中の1時頃に目が覚めた。背中がちめたいのである。腰のあたりがこわばる感じがする。敷布団の上にタオル地のシーツを敷き、毛布をかけ、さらに掛け布団との間に薄い布団もはさんでいるのだが、冷えは下からやってくる。


ビルの1階である。畳の下はおそらくコンクリートの基礎で固めてあるのだろう。想像するだけに寒々しい光景だ。そこからじんと冷えきった空気が、畳を通して伝わってくるのだ。敷布団の下に手を入れると、ひんやりとしている。冷気は下から攻めてくる。


その夜は結局、体を丸めることで寒さに対抗した。けれども、完全に打ち負かされた。仕方なく3時前には起き上がり、4階に行って仕事に取りかかった。ま、眠れないなら、仕事すればいい。そして早く起きたら、次の日はもっと早く寝ればいい。7時に床につけば、2時に起きたとしても7時間眠ったことになる。


と思って寒さに対抗しようとしてみたのだが、さて。時に寝るのが遅くなることもある。そんな時は、もう寒いのである。皮膚が体の内側にきゅ〜っと縮こまっていくような感じである。酔いの力を借りて何とか眠りに入ることはできるものの、すぐに目覚めてしまう。


これは何とかせねばと思って考えた。必要は発明の母なり。要するに冷たいのは背中である。それなら体の上にかけている毛布を下に敷けばよいではないか。だが、それだけではお腹の上がスースーする。ぽんぽんもぬくぬくでないと、眠れるものではない。


ならばと考えた。敷布団の真ん中辺りに毛布を敷き、その毛布の両側を真ん中に向けて折り返せばよいのだ。これなら上下に毛布があることになる。考えれば知恵は出るのである。やれうれしやとばかりに、毛布に潜り込む。このとき、すでに毛布の上に小布団、掛け布団がセットされているので、潜り込む際には慎重さを要する。あわてて入るとぬくぬく空間を確保できなくなるのだ。


これで、この冬を乗り切れる。


と思ったが甘かった。基本的に寝相はよい方だが、それでも若干の動きはある。動くと上にかけている毛布がずれるのだ。ずれると体の表面が寒い。これでは熟睡できぬではないか。どうすればよいのだ。万事休すかと思ったが、やっぱり少し考えれば知恵が出てくるものだ。


毛布のセッティングを逆にすればよいのである。しかも、折り返して体の下になる部分は、右と左を少しばかり重ねあわせるのだ。さらにナイスアイデアも一つ。足元も折り返して、体から出る熱を逃さないようにすればどうだ。これぞ毛布式寝袋(寝袋式毛布の方が正解か、どっちでもいいけど)である。


今のところ、これで何も問題はない。この先、どれほどの寒さが来ようと乗り切れそうな気がする。夜、寒くてお困りの方、ぜひお試しあれ。


うん? なんか根本的なところで間違っているような気がしないでもないけど、気のせいということにしておこう。それはそれ、これはこれ。そして人生は続く。Life goes onである。


昨日のI/O

In:
『走ることについて語る時に僕の語ること』

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

Out:
某原稿下書き8枚
某原稿プロット4枚

昨日の稽古:

基本稽古・内歩進